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青森地方裁判所弘前支部 昭和52年(ワ)251号 判決 1981年4月27日

原告

那須隆

外九名

右一〇名訴訟代理人

南出一雄

外三名

被告

右代表者法務大臣

奥野誠亮

右指定代理人

宮村素之

外四名

凡例

一 略語

「原一審」「原一審裁判所」――青森地方裁判所弘前支部

「原二審」「原二審裁判所」――確定判決をした仙台高等裁判所

「棄却審」――再審請求棄却決定をした仙台高等裁判所

「異議審」――再審開始決定をした仙台高等裁判所

「再審」「再審裁判所」――再審判決をした仙台高等裁判所

二 証拠の表示

本判決理由のなかで引用する書証は、すべてその成立(写真についてはそれぞれ提出者主張のとおりの状況をその撮影年月日に撮影したものであること、写で提出されたものについては原本の存在とその成立)に争いないものであるから、いちいちそのことをことわらない。

主文

一  被告は原告那須隆に対し金九六〇万二四〇一円及びこれに対する昭和五二年一〇月二八日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告那須隆のその余の請求及びその余の原告らの請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告那須隆と被告との間においては、原告那須隆に生じた費用の五分の一を被告の負担とし、その余は各自の負担とし、その余の原告らと被告との間においては全部その余の原告らの各負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮りに執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し、それぞれ別紙(一)請求金額明細表中「請求金合計額」欄記載の各金員及びこれらに対する昭和五二年一〇月二八日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  無罪判決確定に至る経緯

(一) 原告那須とみ(以下「原告とみ」という。その余の原告についても、以下姓を省略し、名のみで表示する。)は、亡那須資豊(昭和四六年九月一七日死亡、以下「亡資豊」という。)の妻であり、原告隆を含むその余の原告らは、いずれも右両名の間に生まれた子である。

(二) 原告隆は、昭和二四年八月二二日、弘前大学教授松永藤雄の妻すず子を殺害したとの被疑事実により逮捕されて、勾留、鑑定留置された後、同年一〇月一二日には別件の銃砲等所持禁止令違反の被疑事実でも逮捕、勾留されて、身柄拘束のまま、同月二二日、同令違反の罪で青森地方裁判所弘前支部に起訴され、さらに、同日前記殺人の罪により再逮捕されたうえ、これについても身柄拘束のまま、同月二四日、別紙(二)記載の公訴事実により同支部に起訴された。右両事件を併合整理した同支部は、昭和二六年一月一二日、殺人の点につき無罪の判決を、銃砲等所持禁止令違反の点については罰金五〇〇〇円に処する旨の判決を言い渡したので、原告隆は同日一旦身柄の拘束を解かれたが、同判決に対し検察官から控訴がなされた。原二審裁判所は、昭和二七年五月三一日、原判決を破棄し、殺人及び銃砲等所持禁止令違反の各罪につき、原告隆を懲役一五年に処する判決を言い渡した。そこで、同原告は右有罪判決に対し上告したが、これが容れられず、昭和二八年二月一九日上告棄却の判決がなされ、前記有罪判決は同年三月三日確定した。原告隆は、原二審裁判所において前記有罪判決が言い渡された後の昭和二七年六月五日から再び身柄を拘束され、以来この状態は仮出獄をする昭和三八年一月八日まで続いた。

(三) 原告隆は、昭和四六年七月一三日、殺人に関する有罪判決について再審請求を行つたところ、仙台高等裁判所は、昭和五一年七月一三日、再審開始の決定をなしたうえ、審理の結果、昭和五二年二月一五日、殺人の点に関する検察官の控訴を棄却する旨の判決を言い渡した。そして、同年三月二日右判決が確定すると同時に、原告隆に対する殺人の点についても無罪が確定した。

2  被告の責任

(一) 殺人の点につき原告隆を有罪とすべき証拠は何一つ存在しなかつたにもかかわらず、前記1記載のとおり、同原告に対し有罪判決が言い渡され、同原告がその刑の執行を受けたのは、以下に述べるような捜査、訴追、裁判各機関の故意または過失による違法行為に基づくものである。

(二) 捜査機関の不法行為

(1) 原二審の前記有罪判決においては、原告隆が着用していた海軍用開襟白シャツ(以下「本件白シャツ」という。)に殺害された被害者の血液型と同じ血液型の血痕が付着していたとされ、これが最も重要な直接証拠となり、同原告が犯人と認定されたのであるが、本件白シャツが押収された当時、右血痕は付着していなかつたものであつて、これは当時の捜査当局が押収後偽造したものである。

(2) また、原二審の有罪判決においては、原告隆が使用していた白ズック靴(以下「本件白靴」という。)の斑痕も人血痕とされ、その旨の鑑定書も作成されていたことから、有罪認定の直接証拠とされたが、右斑痕は血痕ではないうえ、人血液であるとの右鑑定書は、事実に基づかないで作成された虚偽のものである。

(3) さらに、捜査官は、原告隆を犯人と決めつけ、事件発生の翌日にはいまだ被疑者も判明していなかつたにもかかわらず、これが判明していたかの如く仮装するため、事件発生の翌日には実況見分を実施し、同日付で作成されたその調書にまで「被疑者那須隆」と記載しているのであつて、これらのことからしても捜査官が後日実況見分調書を書き変えたことは明らかである。

(4) 以上のとおり、誤判を生み出した違法行為は、まず、捜査官の右のような違法な捜査活動に存したのである。

(三) 検察官の不法行為

(1) 見込み逮捕、勾留等の違法な捜査の継続

昭和二四年八月二一日夜、原告隆が友人である栗田敦夫宅に遊びに行つた際、同人宅に預けて来た本件白靴を、同夜たまたま同所に立ち寄つた警察官今武四郎が本人の同意も得ずに勝手に持ち去り、これを弘前市警察署長山本正太郎らに示したところ、同署長らは適式な手続を踏むことなく、当時公安委員をしていた松木明宅に持参して同人にその鑑定を依頼した。右鑑定の結果によつても、原告隆が犯人であるとの明確な結論は出されなかつたにもかかわらず、事件発生後犯人割り出しの見通しが立たず、焦つていた右山本らは、同月二二日、原告隆を単なる見込みで逮捕した。逮捕当日、右山本らは、原告隆の自宅から本件白シャツ等を押収したが、これらも全くの見込みによるものであつたため、犯行と結びつくものは何も得られなかつた。そこで、翌日、再び強制捜査をなして同原告の自宅からシャツ等の衣類多数を押収したばかりでなく、同月二五日にも任意提出の形式で残りの衣類を押収した。これらの押収は、見込みで逮捕したことを上回る見込み押収であり、何かあるのではないかという漠然とした容疑に基づくもので、実質的には明らかに違法なものである。青森地方検察庁弘前支部検察官は、右のような捜査の状況を十分把握していたのであるから、これを直ちに是正すべきであつたのに、これを怠り、かえつて殺人の被疑事実につき勾留の請求や勾留延長の請求をなし、違法な捜査を黙認継続した。

(2) 違法な鑑定留置による身柄拘束

勾留期間満了間近になつた昭和二四年九月一〇日から同月一二日にかけて、各鑑定の結果によつても本件白シャツ、本件白靴からは原告隆と犯行とを結びつけるものは全く得られず、他方、同原告は取調べにおいても終始一貫して無実を主張し続けていたのであるから、検察官としてはもはやこれ以上同原告を勾留することは法律上許されないことであつて、直ちに同原告を釈放すべきであつたところ、違法にも精神鑑定に名を借り、身柄の拘束を継続した。しかも、鑑定留置するに当り、検察官が求めた鑑定事項は、「被疑者那須隆の本件犯行当時及び現在における精神状態」という内容のもので、原告隆が犯人であることを前提とした極めて危険、かつ、違法性の強いものであつた。

(3) 公訴提起の違法性

(イ) 検察官が原告隆を殺人の罪で起訴するに先き立ち、同原告を逮捕、勾留するに至つたのは、同原告が栗田敦夫宅に預けていた本件白靴を持ち出し、その鑑定を松木明医師に依頼したところ、右白靴に被害者の血液型と同じB型の血痕が付着していたとの鑑定結果が出たことによるものである。ところが、逮捕状請求前に行つた本件白靴の鑑定の結果及びその後になされた二回目の鑑定結果を合わせ記載した松木明作成の昭和二四年一〇月四日付鑑定書には、血液型についての記載はなく、かえつて血液型については試料不足のため検出不確実であつたと記載されており、したがつて、検察官が逮捕状請求の資料とした鑑定結果は実際には存在しなかつたことが明らかである。しかるに、検察官は、右事実を知りながら、右松木明作成の昭和二四年一〇月四日付鑑定書の存在を秘し、かつまた証拠が偽造されたことを知悉しておりながら、原告隆に対し本件白シャツや本件白靴を示して取り調べたことは一度もなく、右鑑定書と全く異る内容の本件白靴に関する松木明、間山重雄作成の同月一九日付鑑定書を証拠として原告隆を起訴したのである。しかも、右鑑定書は、北豊、平嶋侃一作成の昭和二四年九月一二日付鑑定書の内容と照らし合わせて検討するとき、鑑定の対象となつた資料(本件白靴)が、松木明作成の同年一〇月四日付鑑定書のそれと果して同一のものであるか否かにつき多大の疑惑を禁じえないものなのである。

(ロ) また、検察官は、本件白シャツに付着している斑痕が人血であるか否かについても疑問を抱き、昭和二四年一〇月一四日付捜査嘱託書をもつて東京地方検察庁に対して調査を依頼したが、その調査結果によつても右疑問点を解明しえなかつたにもかかわらず、三木敏行に対し、本件白シャツに付着していた斑痕が人血であることを前提として鑑定を依頼し、その結果作成された鑑定書が提出されるや、自らの疑問を晴らそうとせず、かつ、前記調査結果を無視し、右三木鑑定書に依拠して公訴を提起した。

(4) 訴訟追行の違法性

検察官は、その職務上真実義務を負つているのに、(イ)当初の逮浦、勾留に関する資料を弁護人の要求や裁判所の勧告にもかかわらず無罪判決確定に至るまで開示、提出することをかたくなに拒み、(ロ)捜査過程において作成された矛盾する鑑定書の一部を再審公判まで隠匿し続け、また、当初の鑑定書や鑑定経緯を明らかにする資料の公判廷への提出を拒み、(ハ)検察官請求の証人引田一雄に対しても、鑑定経緯の矛盾や証拠偽造が発覚することを恐れて偏執な尋問態度をとり続けるなど、訴訟追行の過程において、真実が解明されることを妨げる行為を繰り返し、誤判の原因を作つた。

(5) 以上のとおり、青森地方検察庁弘前支部検察官は、原告隆が殺人の件につき無実であることを知りながら、または、通常の検察官に要求される職務上の注意義務を尽して証拠を検討すれば、同原告が無実であることを容易に知りえたのに、これを怠り、逮捕、勾留、鑑定留置等を繰り返したうえ、これに基づく公訴の提起とその追行等の違法行為をなしたほか、証拠のねつ造を知り、または法律家として最少限度の注意をもつてすれば容易に知りうる立場にありながら、これを看過してこれらの証拠を法廷に提出し、他方、重要な証拠を隠匿するなどの違法行為を重ね、誤判の原因を作り出した。これら検察官の不法行為は、本件誤判原因の基本的なものである。

(四) 裁判所の不法行為

(1) 原二審裁判所は、原一審裁判所の無罪判決に深く考察を加えるべきところ、予断と偏見にとらわれ、(イ)本件白シャツの血痕に関する疑惑や鑑定人の偏つた態度に気付かず、これらを看過し、(ロ)本件白靴の斑痕についての考察も行なわず、(ハ)動機や目撃者に関する証拠も十分に検討しないなど自由心証の範囲を大きく逸脱し、結局原告隆を犯人とすべき証拠が何一つ存在しなかつたのに、これに気付かず、有罪の認定をした。これは、通常の裁判官であればなさなかつたであろう経験則を著しく逸脱した事実認定であるから、原二審裁判所は、その職務遂行につき、注意義務を怠つた過失があつたものといわなければならない。

(2) さらに、上告裁判所が本件につき判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、これを破棄しなければ著しく正義に反することを看過し、上告を棄却したことも過失によるものである。

(五) 被告は、捜査、訴追、裁判各機関の職務上の不法行為について責任を負う立場にあるものであるから、国家賠償法一条により、原告らの被つた損害を賠償する責任がある。

3  損害

(一) 原告隆

(1) 逸失利益

原告隆は、逮捕された昭和二四年八月二二日当時、二五歳の独身青年であつた。旧制中学校を卒業している同人は、当時無職ではあつたが、試験を受けた上で就職すべくその申込みをし、待機中であつたから、本件での災難にあわなければ、昭和二四年八月二二日から仮出獄した昭和三八年一月八目までの間、通常の形で稼働し相応の収入を得ることができたはずである。この間の逸失利益の計算方法としては、昭和二四年九月以降の賃金センサスを基礎に年毎の逸失利益を算定し、これに遅延損害金を付して総額を算出するのが通常であるが、本件においては、昭和二四年以降の賃金センサス等の資料不足と大幅な貨幣価値の変動という特殊事情があるため、通常の計算方法は妥当しない。本件のように冤罪で二八年間も社会的経済的活動を否定されてきた者がその獄中にあつた期間の逸失利益とその運用の可能性を考えるに当つては、このような請求権が具体的に発生した時点で平均的社会人として稼働すれば得られるであろう賃金の総額として計算する方法、すなわち、昭和二四年九月から昭和三八年一月までの間に稼働すれば得られるであろう賃金を無罪が確定した昭和五二年に一気に補償したとするならば、どのような賃金を得ることができるかという観点から算出するのが最も妥当な方法である。この方法で、労働省労働大臣官房統計情報部編労働統計要覧(一九七七年版)の旧制中学校卒業の管理・事務・技術労働者(男)の平均現金給与額表をもとに計算すると、次のとおりであるが、本件では内金として金三四二四万二七〇〇円を請求する。

(イ) 二七歳から二九歳までの三年間

金六一六万六五〇〇円

(129,400×12+502,700)×3

(ロ) 三〇歳から三四歳までの五年間

金一三〇一万八〇〇〇円

(161,300×12+668,000)×5

(ハ) 三五歳から三九歳までの五年間

金一四七六万五〇〇〇円

(180,800×12+783,400)×5

(ニ) 四〇歳までの五か月間

金一三五万一〇〇〇円

(ホ) 合計 金三五三〇万〇五〇〇円

(2) 慰謝料

原告隆は、昭和二四年八月二二日逮捕されてから昭和三八年一月八日まで拘禁生活を余儀なくされ、さらに昭和五二年三月一日まで殺人者の汚名を着て、社会生活においてもひつそくした生活を強いられたが、この間に同人が失つたものはもはや取り返しがつかない。また、同原告は、昭和三八年一月に出所後稼働したが、高年齢になつてからの就職であつたため、同年齢で若い時期から働いていた人が年功序列型の日本の賃金体系の中で得ていた賃金と同程度のものを直ちに得ることはできなかつた。これらの要素を考慮すれば、原告隆が二八年間冤罪により社会的生命を奪われ続けた精神的損害に対する慰謝料は、少くとも金二〇〇〇万円が相当である。

(3) 裁判費用

原告隆は、再審請求をしてから再審開始決定を経て無罪判決確定に至るまでの間、裁判費用として多額の出捐を余儀なくされたが、本件で請求している金六〇〇万円の内訳は次のとおりである。

(イ) 再審請求事件(棄却審、異議審の双方を意味し、再審公判を含まない。以下同じ。)において、南出一雄、松坂清、青木正芳の三名の弁護士に支払つた着手金及び成功謝金  金三〇〇万円

(ロ) 再審請求事件において、右三名の弁護士に支払つた左記出張に要した旅費、日当の合計額  金一五〇万円

証拠調期日

(昭和年月日)

証拠調をした場所

(都市)

証拠調の内容

1

四七・三・八

仙台

証人尋問

2

四七・三・二七~

四七・三・三一

弘前

証人尋問、検証

3

四七・四・一

八戸

証人尋問

4

四七・七・一〇

東京

右同

5

四七・七・一九

仙台

右同

6

四七・八・八、

四七・八・九

東京

右同

7

四七・一二・一九

東京

右同

8

四八・九・二六

弘前

右同

9

五一・三・五、

五一・三・六

東京

右同

10

五一・三・二五

仙台

右同

11

五一・四・二六

弘前

右同

12

五一・五・三一

仙台

右同

(ハ) 右三名の弁護士が裁判記録謄写等に要した費用  金八〇万円

(ニ) 右三名の弁護士以外の弁護士に対する謝礼(記念品代)、原告隆本人の出廷旅費、弁護士の調査旅費等の諸経費

金七〇万円

(4) 補償金の受領

原告隆は、昭和五二年八月三〇日、刑事補償法に基づく補償金として金一三九九万六八〇〇円の交付を受けた。

(二) 原告らが相続した亡資豊の損害

(1) 財産的損害

亡資豊は、昭和二四年当時、(イ)弘前市大字在府町二〇番の一号、宅地二九二坪五合、(ロ)同所所在、家屋番号大字在府町一番、木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建居宅一棟、建坪三三坪五合及び(ハ)同平家建物置一棟、建坪四坪五合を所有していたが、昭和二六年一月二七日と同年一二月一九日の二回にわたり、代金合計六六万三五〇〇円で右土地建物を売却し、その売却代金の半額を原告隆の弁護人に対する支払いや裁判記録の謄写費用等に費やした。これは、不法行為としての本件捜査、訴追に対する妨害活動のために支出を余儀なくされた金員であるから、原告隆に対する不法行為と相当因果関係があることは明らかである。しかも、この損害は、二八年後にしてはじめて損害賠償請求が法的にも可能になつたものであるから、損害額の算定にあたつて単純に二八年前の交換価格を基礎にすることはあまりにも不当である。本件においては、支払を強いられることになつた金員を工面するために資産を売却するという形で失うに至つたその経済的事象全体を見なければ、損害の実態を正確に見たことにはならない。そこで、亡資豊が売却の形で失つた前記土地建物を現在買い戻すと仮定した場合の価額を算出し、その半額は損害として当然に請求しうると解すべきである。ところで、売却した土地の昭和五四年度の固定資産税評価額は八六二万八九七二円(建物は現存しない。)であるから、これと時価との常識的な金額差を考慮したうえ、右の考え方に従うとすれば、亡資豊の財産的損害として金八五〇万円は少なきに失することはあつても、多額に過ぎることはない。

(2) 慰謝料

亡資豊は、関係各機関の前記不法行為により、突然わが子に殺人犯の汚名が着せられることになり、その社会的名誉を一挙に失つた。特に同人は長い間裁判所に勤務していた経歴を有する者であるだけに、その後の生活は、社会生活の前面に出ることが非常に困難になり、俗にいう日影の生活に陥つてしまつたことは理解に難くない。同人はいつか冤罪を晴らすべく、服役中の原告隆を激励し、かつ、再審請求のため多大の努力を続けたが、ついにわが子が汚名を晴らす様子を見ることもなく、永遠の眠りについた。このように、亡資豊の被つた精神的苦痛は、原告隆が生命を害されたときにも比肩すべきものであるから、自己の権利として慰謝料を請求しうるところ、その慰謝料額としては少なくとも金五〇〇万円が相当である。

(3) 相続

原告らは、昭和四六年九月一七日、亡資豊の死亡により、同人の被告に対する右(1)及び(2)の損害賠償請求権を別紙(一)の請求金額明細表中「亡資豊の損害賠償請求権の相続分」欄記載のとおり相続した。

(三) 原告とみ

原告とみは、亡資豊と同様の事由により、原告隆が生命を害されたときにも比肩すべき精神的苦痛を被つたから、自己の権利として慰謝料を請求しうるところ、その慰謝料額としては少なくとも金五〇〇万円が相当である。

(四) その余の原告ら

その余の原告らは、すべて原告隆の弟妹であり、昭和二四年八月当時、原告光子が婚姻により、原告正が勤務のため別居していたほかは原告隆と同居していた者であるが、原告隆が殺人者の汚名を着せられたため、ある者は嫁ぎ先で夫の実家及びその親族から一切の交際を断たれ、夫死亡後は全く没交渉となり、先祖の祭祀にすら関与させられない扱いを受けるに至つた。また、ある者は、看護婦としての勤務も担当患者から拒まれ、勤務先からは国家試験受験手続すらとつてもらえず、昇給等でも差別されたうえ、国立病院から退職を余儀なくされたため、劣悪な条件で私立病院を転々とせざるを得ない事態に至つた。また、ある者は教職に留まることが許されず、辞して他に転職せざるを得なくなり、ある者は、いつたん決定した就職が身許調査により取り消されるなどし、ある者は上司から職場の男性と親しくしないよう注意されたばかりでなく、普通の勤務態度でいることすら否定され、ある者は勤務先で店員として稼働中あるいは通勤途中、「人殺しの那須の身内」という呼ばれ方をするなど、一歩家を出るとその人格を無視されるような社会生活を強いられてきたのである。これは単に社会的な扱いにおいてだけでなく、原告隆が有罪判決を受けた際負担を命ぜられた訴訟費用について執行免除を申し立てた裁判の中でも、父母に資産があり、弟妹が稼働して収入があるのであるから免除しないとされ、実質的には原告ら全員にその支払義務が確認されるなど、原告ら全員が冤罪の汚名のもとに生活することを強いられたのである。これらの社会的、法律的処遇は、すべて前記誤判とこれを生み出した前記各機関の不法行為に基づくものであり、このために原告隆及び同とみを除くその余の原告らは、原告隆が生命を害されたときにも比肩すべき精神的苦痛を受けたから、被告はその余の原告らに対し、各金三〇〇万円の慰謝料を支払うべきである。

(五) 弁護士費用

原告らは、本訴の提起、追行を南出一雄ら四名の弁護士に委任したから、原告らは少なくとも請求額の各一割(原告隆については金四七〇万円)を弁護士費用として右弁護士に支払う義務があるところ、これも本件不法行為と相当因果関係のある損害であるから、被告はこれを賠償する責任がある。

(六) 以上によれば、原告らの請求額は、原告ら各自の被つた損害額に亡資豊の損害賠償請求権の相続分をそれぞれ加算したうえ、原告隆についてだけは損害の填補を受けた分を控除し、これに右(五)記載の弁護士費用を各加算した額となるが、これを表にすれば、別紙(一)のとおりである。

4  よつて、原告らは被告に対し、国家賠償法一条または民法七〇九条ないし七一一条に基づき、損害賠償として別紙(一)の請求金額明細表中「請求金合計額」欄記載の各金員及びこれらに対する本件不法行為の日より後である昭和五二年一〇月二八日から各支払いずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  講求原因に対する認否

1  請求原因1(一)ないし(三)は認める。

2(一)  同2(一)につき、再審判決において、「本件が被告人(原告隆を指す。)の犯行であることを認めるに足る証拠は何一つ存在しない」旨の判示がなされたことは認めるが、その余は争う。

(二)  同2(二)のうち、原二審の有罪判決においては、本件白シャツに血痕が付着していたとされ、これが直接証拠となつたこと、本件白靴の斑痕も人血痕とされ、これが直接証拠となつたことは認めるが、その余はすべて争う。

(三)  同2(三)はすべて争う。

(四)  同2(四)のうち、原二審裁判所が有罪の認定をしたこと、上告裁判所が上告を棄却したことは認めるが、その余は争う。

(五)  同2(五)のうち、被告が裁判官、検察官の各職務行為につき国家賠償法上の責任主体であることは認める。

3(一)  同3(一)のうち、原告隆は、逮捕された当時二五歳の独身青年であつて、旧制中学校を卒業しており、当時無職であつたこと、同人は昭和三八年一月八日まで拘禁生活を余儀なくされたこと、昭和五二年八月三〇日、刑事補償法に基づく補償金として金一三九九万六八〇〇円の交付を受けたことは認めるが、その余はすべて争う。

(二)  同3(二)のうち、亡資豊は原告隆の父であり、同人が裁判所に勤務していた経歴を有すること、同人は昭和四六年九月一七日死亡したことは認めるが、その余はすべて争う。

(三)  同3(三)につき、原告とみが原告隆の母であることは認めるが、その余は争う。

(四)  同3(四)のうち、その余の原告らの身分関係及び訴訟費用執行免除の申立てがなされ、これが却下されたことは認めるが、その余はすべて争う。

(五)  同3(六)は争う。

4  同4は争う。

三  被告の主張

本件における被告の主張は、被告提出にかかる別紙準備書面(一)ないし(四)記載のとおりである。

四  被告の主張に対する原告らの反論

被告の主張は刑事裁判の手続形成の重要な意義を理解せず、鑑定書の記載についても初歩的ルール等を全く無視した暴論で理解に苦しむものであるが、一応問題点ごとにその誤りを指摘しておくこととする。

1  松木明、間山重雄の鑑定人としての資質について

松木明は確かに生人血液の鑑定を多く手がけていた医師であるが、同人の研究テーマは人間の血液型の分布等、人間から生血液を採取してのそれであり、法医学的なものとは全く異なつていた。しかも、同人は、斑痕が人血痕であるか否かについて鑑定をしたのは本件が初めてであるというのであるから、本来、鑑定人となり得る資格があつたかどうかさえはなはだ疑問なのである。再審請求が問題になつた段階で、同人ははじめて自分のなした鑑定につき正式の鑑定という名に価するものではない旨供述しているが、そうだとすれば当初から鑑定書を作成提出すべきではなかつたのである。

また、間山重雄は更に資質に欠けるもので、鑑定人としての適格を有しなかつたのであろう。にもかかわらず、何故か共同鑑定人という形で責任を分担しながら、あたかも通常の鑑定人のごとくふるまつたところにこそ問題があつたのである。

2  松木明、間山重雄の作成した鑑定書の無価値性について

被告は、右両名が二度に亘つてなした鑑定を一通の鑑定書にまとめたものであつて、実際の鑑定作業も鑑定書に記載されている日時に行なつたものではなく、別の時期に行なつたものであり、鑑定書には記載されていないが、鑑定の結果はすでに出ていたし、対照試験は血痕の付着していた付近を切りとつて行なうことは通常考え難いことであり、Q式検査等も経験のないものがはじめてやつても十分にやれるうえ、鑑定書の作成年月日が不正確であつても鑑定結果には何ら影響を及ぼすものではなく、ましてやメモ的なものを適当に鑑定書に書き直したので誤りが生じたのは仕方のないことであるなどといつた主張を繰り返し、被告に都合の良い構成をしようとする。

しかし、実際は昭和二四年八月二二日か二三日に鑑定したことを「昭和二四年一〇月一七日午後四時に着手し、同一八日午後四時に終つた。」と記載するに至つては、鑑定人が有罪判決確定まで一言もこのようなことに言及していなかつただけに、この主張自体、被告が本気で行なつているのであろうかと疑わずにはいられない。刑事裁判において国の権力を行使する立場にある検察官がこの程度の鑑定書をもつて人を訴追し、処罰するということが平然と行なわれているということであろうか。

3  二回にわたる鑑定結果を一回の鑑定結果として記載するなど極めて軽率かつ稚拙であつたため誤記等を多々生ずることとなり、また松木医師もこれに十分検討を加えなかつたため、右誤記等を発見するにいたらず、メモ程度のものを鑑定書としたうえ、他人に署名させてこれを提出させたということが事実であつたとするならば、正にそのようなことを平然と行なわしめた検察官の責任もまた重大であるといわなければならない。

以上のとおり、被告の主張は、刑事裁判の原則を無視した暴論であり、全面的に争う。

第三  証拠<略>

理由

一請求原因1の(一)ないし(三)の事実については当事者間に争いがない。<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。すなわち、

原告隆は、大正一二年九月一一日、青森県青森市大字造道字浪打百番地において、亡父資豊、母とみの二男として出生し、昭和二四年八月六日午後一一時過ぎころ、弘前大学教授松永藤雄の妻すず子が殺害された事件(いわゆる弘前大学教授夫人殺し事件、以下「本件」という。)が発生した当時、満二五歳の青年であつたこと、同原告は、同月二二日、右殺人事件の被疑者として逮捕、勾留された後、鑑定留置され、さらに別件である銃砲等所持禁止令違反の罪によつても逮捕、勾留されたほか、前記殺人の罪により再逮捕されたうえ身柄を拘束されたまま、同年一〇月二四日、別紙(二)記載の公訴事実により青森地方裁判所弘前支部に公訴を提起されたこと、原一審裁判所は、昭和二六年一月一二日、原告隆に対する殺人の点につき無罪の判決を、銃砲等所持禁止令違反の点については罰金五〇〇〇円に処する旨の判決を言い渡したこと、そのため、原告隆は同日釈放されたが、同判決に対し検察官から控訴がなされたこと、原二審裁判所は、昭和二七年五月三一日、原判決を破棄し、殺人及び銃砲等所持禁止令違反の罪につき原告隆を懲役一五年に処する判決を言い渡したため、同原告は上告したが、これが容れられず、昭和二八年二月一九日上告棄却の判決がなされ、前記有罪判決は同年三月三日確定したこと、この間、原告隆は、前記有罪判決が言い渡された後の昭和二七年六月五日から再び拘禁され、以来この状態は仮出獄する昭和三八年一月八日まで続いたこと、原告隆は、昭和四六年五月末ころ、本件の真犯人であると名乗り出た者がいることを知り、同年七月一三日、殺人に関する有罪判決について、仙台高等裁判所に対し再審請求を行い、昭和四九年一二月一三日、右再審請求は一度は棄却されたものの、これに対する異議申立てにより、昭和五一年七月一三日、再審開始決定を得たこと、再審公判における審理の結果、再審裁判所は、昭和五二年二月一五日、殺人の点に関する原一審裁判所の無罪判決に対する検察官の控訴を棄却し、右判決は同年三月二日確定し、ここに原告隆に対する殺人の点に関する無罪が確定したこと、右判決において、本件の真犯人は滝谷こと石垣福松であると断定されたこと。

以上の事実が認められ、これを覆えすに足りる証拠はない。

二そこで、被告の責任について検討する。

1  原告らは、被告の責任として、捜査、訴追、裁判各機関の不法行為を主張するが、以下においては、まず訴追機関(検察官)の不法行為として主張されているもののうち、公訴の提起、追行の違法性及び故意・過失について判断する。

2  ところで、検察官による公訴の提起とその追行は、刑事事件において単に無罪の判決が確定したというだけで直ちにそれが違法となるものではない。けだし、公訴の提起は、特定の被告人がなした特定の犯罪事実について、検察官が裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示を内容とする訴訟行為であるから、公訴提起時における検察官の心証としては、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、公訴提起時における各種の検察官手持証拠資料および将来入手することが期待される証拠資料を総合勘案して合理的な判断をなし、その結果有罪判決を期待しうる可能性のあることが必要であり、またそれで足りるからである(最高裁判所昭和五三年一〇月二〇日判決、民集三二巻七号一三六七頁参照)。しかしながら、公訴の提起あるいは公訴追行の各段階において、公訴事実について証拠上合理的な疑問点が存在し、有罪判決を期待しうる可能性が乏しいにもかかわらず、あえて公訴を提起、追行した場合には、その公訴の提起、追行は違法となるものと解するのが相当である。すなわち、理論的には「被告人は有罪の判決があるまでは無罪と推定される」とはいえ、我が国の現実においては、検察官による公訴の提起、追行により被告人とされた者が社会的に受ける不利益は深刻である(時として休職処分などの法律上(国家公務員法七九条二号、地方公務員法二八条二項二号など)ないしは契約上(民間企業における雇用契約や労働協約などにこの種の定めがある場合)の不利益処分を受ける場合もあるのである。)から、公訴の提起、追行にあたつては、検察官の主観においてはもちろん、客観的にも犯罪の嫌疑が十分で、有罪判決を期待しうる合理的根拠の存することが必要である。そして、犯罪の嫌疑が十分で、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存するか否かは、当該刑事事件において裁判所に提出された資料のみならず、公訴の提起、追行の各段階において検察官が入手しているすべての資料及び将来入手することが期待される資料を十分検討して判断すべきである。

3  検察官が、刑事事件について捜査し、公訴を提起し、追行するのは、公益の代表者とし行なうのであるから、検察官は、被疑者・被告人の正当な利益をも擁護する職責を有するものであり、したがつて、被疑者を取り調べるに際し、その罪責が明白になるまでは清白の人として処遇すべきであるは勿論、被疑者の弁明に十分に耳を傾け、物証の取り調べについては、あらゆる角度から(換言すれば被疑者の有利の面からも)、周密に徹底して取り調べる必要がある。また、公訴の提起は、捜査の一応の終了を意味するのであるから、検察官は、前記職責に照らし、起訴・不起訴を決するにあたつても、偏見を去り、予断を避け、穏健中正の立場で、収集した全ての証拠を公正に吟味して事案の真相を究明したうえで事を決しなければならず、検察官が被疑者の有利な弁解に耳を傾けず、不利な証拠を過信し、物証の取り調べの徹底を欠き、そのために事実の判断を誤まり、無辜を起訴するようなことは絶対に許されないところである。検察官が、右の立場から、全ての証拠を吟味して、なおかつ事実の判断に苦慮する事案においては、刑事司法の基本理念である「疑わしきは被告人の利益に」との大原則に則り、起訴を差し控えるべきであつて、蛮勇を振つて起訴に踏み切るべきではない。かかる場合には検察官は、その職責上、「一〇人の罪人を逃がすとも一人の無辜を罰する勿れ」の法格言に思いを至すべきである。検察官の公訴提起に右に述べ来たつた職務上の違法行為があつた場合には、その違法は刑事司法の根幹に関わる重人な違法であつて、その違法な公訴提起の結果として、裁判所において有罪判決がなされ、これが確定したからといつて決してその違法が治癒されるものではない。無辜の被告人は、その結果、刑に服することになるのであるから、その違法は持続・拡大こそすれ、治癒されることがないことは明白である。

4  以上の見地から、本件においては、まず公訴提起の違法性及び過失ならびに公訴追行の違法性及び過失の有無について検討する。

三公訴提起の違法性及び過失

1  本件白靴に対する捜査について

<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一)  本件白靴は、以前原告隆の父資豊が使用していたものであり、その後長年使用せずに放置されていたため、原告隆は、昭和二四年七月上旬ころ、これを清藤靴屋に修理に出し、それが四、五日ですんだので、以後これを受け取つて常用し、本件発生当時の同年八月六日ころも外出する際にはよくこれを使用していたこと、同月二一日午後六時ころ、青森県弘前市亀ノ甲町一九番地所在の栗田敦夫方を訪れたときもこれを履いて行つたが、帰宅しようとした同日午後九時ころには雨が降つていたため、本件白靴を同人方に預け下駄とかさを借りて帰宅したこと、同日午後一一時ころ、弘前市警察署巡査今武四郎は栗田方を訪れ、本件白靴に血痕らしいものが付着していることを発見し、これを栗田敦夫の妻の承諾を得て借り受け、弘前市警察署へ持ち帰つたこと、翌二二日付で本件白靴の領置手続がとられたこと、その当時における本件白靴は、表面が白色のズック製二重布で、紐穴が五箇ずつ二列に付いており、そこに一本の紐が通してあつたこと、靴底は皮製で、右踵の下半分と左踵の右半分には鉄片各一個が打ちつけてあり、その部分にいずれも補修された跡が残存していること、左足の靴底で拇指があたる部分には楕円形状にゴムが貼りつけられ修理されていたこと。

(二)  昭和二四年八月二一日午後一一時ころ、弘前市警察署の山本正太郎署長、笹田一雄巡査部長、今武四郎巡査は、本件白靴を当時弘前市公安委員をしていた開業医松木明のもとへ持参し、血液が付着しているか否かの検査を依頼したこと、松木医師は、同日午後一一時ころ翌二二日午前二時ころまでの間、右靴の紐の部分の斑痕外数個所につき検査したところ、斑痕は血液であり、しかも人血であるが、血液型の判別は不能であるとの結果を得たこと、当時本件捜査を応援するため国家地方警察青森県本部から弘前市警察署に派遣され、署長及び捜査課長前田武雄警部の下で捜査の手伝い等の任にあたつていた須藤勝栄警部は、同日午前九時ころ、右検査結果の報告を受け、これを本件を担当していた青森地方検察庁弘前支部検察官沖中益太(以下「沖中検事」ともいう。)に報告したところ、同検事に血液型を確認する必要がある旨指摘されたうえ、同日朝の捜査会議においても血液型不明のまま逮捕状を請求するのはおかしいとの意見が出されたので、弘前市警察署鑑識課技手間山重雄に血液型を調べるよう指示したこと、そこで、間山技手は、本件白靴を松木医師宅に持参し、松木医師とともに同日午前九時ころから同日午後三時ころまで検査した結果、血液型はB型であることが判明したこと、須藤警部は、本件白靴にB型の血液が付着していたとの報告を受けるや、直ちに山本署長、前田捜査課長らに報告し、次いで沖中検事にも報告し、併せて同検事に逮捕状請求の了承を得る一方、間山技手に松木医師とともに行なつた前記検査結果を報告書(その標題は明らかでない。)の形式で書面化するよう命じ、これを疏明資料の一部とし、さらに一件記録を沖中検事に閲読してもらつたうえ、青森地方裁判所弘前支部に原告隆に対する殺人の罪で逮捕状を請求したこと、右請求をするに至つた主たる理由は、(1)犯行現場から原告隆宅に至る路上に連続して血痕があつたこと、(2)松木医師の鑑定により原告隆が同月二一日栗田敦夫方に預けて帰つた本件白靴に被害者の血液型と同じB型の血液が付着していることが判明したこと、(3)原告隆は、同月七日、栗田敦夫方に赴き、警察が来たら同月六日には栗田宅に泊つたといつてくれと頼むなど故意にアリバイ工作を行なつていること、などによるものであつたこと、請求後間もなくして逮捕状が発付されたので、本件捜査に従事していた司法警察員須藤勝栄ほか一名は、同月二二日午後七時五〇分ころ、弘前市警察署において、任意取調べ中の原告隆を本件の被疑者として逮捕したこと。

(三)  ところで、前示のように、本件白靴の検査に当つた松木医師は、捜査当局から正式の鑑定嘱託を受けたものではなく、いわゆる当りをつけるために一応の検査を依頼されたに過ぎないこと、本件白靴は本件を解明するのに最も重要な物的証拠であり、したがつて、後に裁判で問題とされる場合を考え、刑訴法に則り別の権威ある鑑定人に正式の鑑定をしてもらう必要があつたこと、そこで同月二三日夜の捜査会議においてなされた決定に基づき、弘前市警察署長は、同月二四日、当時の青森医学専門学校(のちの弘前大学医学部)法医学教室の引田一雄教授に本件白靴の鑑定を嘱託したこと、引田教授は、同日、本件白靴の右紐に付着していた小指頭大の褐暗色の斑痕一個につきベンチジン試験を実施したところ陽性の反応を示さず陰性であり、さらに本件白靴に付着していた暗色斑痕につきルミノールによる化学発光検査法を実施したところこれも燐光を発しなかつたこと、そのため同教授は本件白靴及びその紐に付着している斑痕は血液との確証を得ないとの鑑定をなし、その旨記載した同年九月一日付鑑定書を作成して弘前市警察署長に提出したこと。

(四)  引出教授の本件白靴に関する右鑑定において、いずれも血液が付着しているとの鑑定結果が得られなかつたため、山本署長はただちに検察庁に赴き、沖中検事にその旨を報告したこと、そして、同年八月二四日夜の捜査会議の席上、右鑑定結果には納得し難い旨の議論が続出したため、改めて国家地方警察本部科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)等の最も権威ある機関へ再度鑑定を依頼することに決したこと、そのころ沖中検事もそのことに同意していたこと、同月二五日ころ、捜査当局の職員は、引田教授がまだ鑑定を終えていなかつたにもかかわらず、同教授のもとから本件白靴を含む鑑定資料全部を明確な理由も告げずに持ち帰り、同月二六日ころ、国家地方警察青森県本部を通じて科捜研へ鑑定を依頼したこと。

(五)  科捜研法医学課警察技官北豊、同平嶋侃一の両名は、同年九月一日から同月一〇日まで鑑定に従事し、本件白靴につき、ルミノール反応試験、ベンチジン反応試験、ヘミン結晶試験、ヘモクロモーゲン結晶試験等を行なつたが、その結果、ルミノール反応試験においては中等度の螢光を発し、その部分についてのベンチジン反応の試験においては弱陽性の反応を示し、ヘミン結晶試験及びヘモクロモーゲン結晶試験においてはいずれも陰性であつたので、同鑑定人らは、「白色ズック靴よりの血痕は証明し得ず」との鑑定をなし、その旨記載した同月一二日付鑑定書を作成提出したこと、本件白靴については、以後公訴提起までの間に鑑定がなされたことはないこと。

(六)  もつとも、(1)松木明作成の昭二四年一〇月四日付鑑定書及び(2)松木明・間山重雄作成の本件白靴に関する同月一九日付鑑定書の記載によれば、右(1)には同年八月二〇日と同年一〇月四日の二回、右(2)には同月一七午後四時から同月一八日午後四時まで、それぞれ鑑定をしたと記載されているが、これらはいずれも事実と異ること、すなわち、(1)の鑑定書は同年八月二一日午後一一時ころから翌二二日午前二時ころまでの間に行なわれた本件白靴に関する第一回目の検査結果を記載したものであり、(2)の鑑定書は同日午前九時ころから同日午後三時ころまでの間に行なわれた本件白靴に関する第二回目の検査結果を記載したものであること、右のように事実と全く異る記載がなされたのは、松木医師の検査がそもそも正式の鑑定としてなされたものではなく、捜査の進展につれてその都度捜査本部からの口頭の要請に基づき、当りをつけるために捜査上必要な初歩的な検査として行われたものであり、その検査結果も当初松木医師が自分のノートに手控えていたところ、本件での血痕鑑定がすべて終了し、もはや血液に関する検査をする必要がなくなつた同年一〇月下旬ころ(証人松木明の証言によれば、その時期は、起訴後の同年一〇月末ころである。)松木医師が国家警察青森県本部の刑事部長から、これまでの一連の検査結果を警察の記録として残して置きたいのでメモ程度でよいから簡単に書いておいてほしい旨依頼され、鑑定作業を手伝つてくれた間山技手にその旨の報告書を作成してもらつたところ、その後やはり鑑定書という形式の書面にしないと都合が悪いといわれ、しかも正式な鑑定書とはしないという前提であつたため、同技手に一連の検査結果を鑑定書に書き改めてもらい、自らも一応目を通したうえこれに押印したことによるものであること、そして、その際内容の不備な点や事実と異なる点もあつたが、これは正式な鑑定書とはせず、科捜研や東北大学における鑑定書を正式のものとするという捜査当局の言を信じ、ごく軽い気持ちで鑑定書と題する各書面に押印したものであること、鑑定嘱託書も後日形式を整えるために作成されたものにすぎず、松木医師は鑑定嘱託書を受け取つたことはないこと、右の事情は、本件捜査過程における松木明作成名義の鑑定書すべてに該当すること。

(七)  昭和二四年一〇月四日付松木鑑定書は、前記のとおり、同年八月二〇日と同年一〇月四日の二回にわたり本件白靴を鑑定したことになつているが、本件白靴が最初に松本医師のもとに運び込まれたのは同年八月二一日午後一一時ころであること(領置調書によれば、警察で領置したのは同月二二日である。)、右二回の鑑定について、いつの時点でどのような検査を行い、どのような結果を得たのかが明らかでないこと、本件白靴に関する同年一〇月一九日付松本・間山鑑定書添付の図壱のイ点、図弐のア点、オ点に血液反応があつた旨記載されているが、同鑑定書第三の三「(1)血液試験」の項では、右各点についても同様の試験を行つたが反応がなかつたとの矛盾する記載や、そのいずれとも記載のないものがあること、また、同鑑定書添付の図弐のイ点は人血である旨記載されているが、同鑑定書第三の三「(2)人血試験」及び「(4)鑑定」の項には、それぞれ図弐のイ点につき人血試験を行つた旨及び人血であると認められる旨の記載が全くないという矛盾があること、したがつて、右二通の鑑定書は、その記載内容自体から極めて杜撰なものであるとわかること。

(八)  本件が発生した昭和二四年八月当時は、新刑事訴訟法が施行された直後であり、警察と検察庁との関係においても、同法警察員が検察官の指揮を受けて捜査を進めるという従来の関係がほとんどそのまま踏襲されていたこと、特に本件のようなその地方における重大事件については、警察の捜査会議の結果や重要な捜査活動についてはすべて検察官に報告し、終始連絡を取り合つて捜査を進めていたこと、本件捜査本部の幹部の一人である須藤警部は、ほとんど毎日検察庁へ出かけ、沖中検事に捜査状況を報告するとともに、その指揮監督の下に捜査を進めていたこと、血痕に関する鑑定結果も逐一検察官に報告され、令状請求の際も一件記録をあらかじめ検察官に閲読してもらつたうえ強制捜査を行なつていたこと、当時、重大事件については、このような捜査の進め方が習慣となつていたこと。

以上の各事実が認められ、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

右事実によれば、逮捕状請求の際、最も重要な物的証拠と考えられていた本件白靴については、その後引田教授の鑑定によつても、また、当時捜査当局が最も権威ある機関として信頼していた科捜研の鑑定によつても、ついに血痕が付着しているとの証明が得られなかつたこと、昭和二四年一〇月四日付松木鑑定書及び同月一九日付松木・間山鑑定書は、その鑑定依頼の趣旨、鑑定書の作成経緯、記載内容などに照らして刑事裁判の証拠たりうる正式の鑑定書とは到底いえない性質のものであることが認められ、しかも前記(八)で説示した事実関係のもとにおいては、検察官沖中益太は、少なくとも右松木鑑定書及び松木・間山鑑定書に関する叙上の諸事実を知つていたものと推認するのが相当であり、またその職掌柄これを知るべき状況にあつたものということができる。

2  本件白シャツに関する捜査について

<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一)  弘前市警察署の唐牛勇之助巡査部長は、青森地方裁判所弘前支部裁判官の発した捜索差押許可状に基づき、警察官数名とともに、昭和二四年八月二二日午後四時ころから、原告とみ立会いのうえ弘前市大字在府町二〇番地所在の那須資豊宅の捜索に着手し、同日午後五時一五分ころ、那須宅の玄関から向つて右側八畳間の東側に隣接する六畳間鴨居の釘様の衣服掛けにかけてあつた本件白シャツを押収したこと、原告隆は、本件白シャツを押収される直前まで、これを着て自宅庭の松の木の手入れをしていたのであるが、突然任意同行を求められたため、これを着替えて前記六畳間鴨居の釘様の衣服掛けにかけ、その上で警察へ出頭したこと、本件白シャツは、終戦後間もないころ原告隆が大湊へ赴いた際たまたまもらい受けて来たもので、以後同原告は毎年夏になるとこれを作業用として着用し、本件発生のころにも、また同月二二日庭の松の木の手入れをした際にも着ていたこと、本件白シャツは、襟が開襟型で、左右の襟端に長さ約二三センチメートルの襟紐が付いている厚手の綿製品であつて、いわゆる七分袖であること。

(二)  本件白シャツにつき、捜査本部の指示により、同月二三日ころ、前示の本件白靴に関する松木鑑定と同趣旨で松木医師に一応検査してもらつた結果、数日後に付着している血痕は人血でその血液型はB型であることが判明したこと(捜査本部に血液型が判明したのは、科捜研に鑑定を依頼した同月二六日ころと推定されるが、その日時は必ずしも明らかでない。)。

(三)  同月二四日、弘前市警察署長は、前記引田教授に本件自シャツの鑑定を依頼して、その資料である本件白シャツを同教授に届けるに際し、那須宅から押収された他の衣類多数とともに小型のこうりに一括して入れられたまま運んだこと、同教授は、鑑定物件全部に一応目を通し、肉眼でみて血痕が付着していると思われるものから順次鑑定を始めたが、本件白シャツの鑑定に着手する以前の同月二五日ころ、警察官が理由も告げずに鑑定物件全部を持ち帰つたため、本件シャツについては鑑定することができなかつたこと、なお、本件白シャツが引田教授のもとに持ち込まれたことは、同教授に対する鑑定嘱託書記載の鑑定資料と科捜研に対する鑑定嘱託書記載のそれとを比較すれば、前者は後者より白色ズック靴が一足少ないだけで他は全く同じ資料であり、そして科捜研には鑑定嘱託書に記載されている全ての鑑定資料が届けられており、その中には本件白シャツも含まれていることからも窺えること。

(四)  弘前市警察署長は、同月二六日ころ、国家警察青森県本部を通じて科捜研に本件白シャツに付着しているものは血液か否か、血液とすれば人血か否か、人血とすればその血液型は何型かについての鑑定を依頼し、同年九月末ころ、北豊・平嶋侃一作成の鑑定書の送付を受けたが、その鑑定書には鑑定結果として、「本件白シャツの汚斑は血痕であり、血液型はB型の反応を示した。」と記載されていること。

(五)  検察官沖中益太は、右北・平嶋鑑定書に検討を加えてその記載に疑問を抱き、東京地方検察庁に対し、同年一〇月一四日付捜査嘱託書をもつて、北豊、平嶋侃一の両名を取り調べ、その結果を至急報告されたい旨を嘱託したこと、本件白シャツに関する右捜査嘱託の内容は、「鑑定の項の二、『海軍シャツの汚斑は血痕であり血液型はB型の反応を示した』と記載してあるが此の血痕は人血であるのか又は鳥獣の血であるのか、本鑑定の主眼は人血であるか否かが第一位次いで人血なれば其血液型が第二位であるに不拘人血なりや否やの点の記載なきは如何なる理由か」というものであること、これに対する回答として、北豊、平嶋侃一の両名作成名義の同月一九日付報告書には、「御質問の『人血であるか又は鳥獣魚類の血であるか』に就てですが、検査した『海軍シャツ、……』は全部『抗人血色素沈降素』によつて『人血反応」を調べましたが、使用した『沈降素』の『沈降価』は酷暑の時期に左右されたのか、検査時には稍低くなつていたので、試験成績の結果は+−(疑陽性)の人血らしい反応も示している状態で、主観的には人血と認めてよいのも検査上、明瞭に陽性を示していない以上技術者としての良心に従い鑑定書には『不詳である』と私共は鑑定した訳です。この不詳を招来した結果は前述のようでありますが、不詳なる意味は鳥獣魚類の血を意味しているのではありません。『人血反応』の陽性なりや否やの断定は、非常に微妙なもので検査時には勿論対照として、単なる『食塩水』や『獣血』等を用いて検査して居りますから、大きい誤を生ずる事は無いと信じております。従つて前記の通り明瞭な『陽性反応』を示しませんでしたので大胆な表現は避けて『不詳』と云う表現を用いて鑑定した訳です。」と記載されていること、右記載によれば、本件白シャツに付着している汚斑は血痕ではあるが、人血とは断定しえないこと。

(六)  また、捜査嘱託に対する回答によれば、北豊、平嶋侃一の両名は、本件白靴に血痕が付着していることは証明しえなかつたとしながらも、一応人血反応をも検査し(その結果は疑陽性ではないかと認められる状態であつた。)、さらに血痕以外の他の何ものかが付着してはいないかとの深慮から、念のためABO式による血液型検査まで実施したことが窺われるのであるから、本件白靴に関する右態度から推して、本件白シャツについても最も疑わしい汚斑につき十分な検査を実施したものとみうるのであり、他に一見して血痕様の汚斑が存するにもかかわらず、これを看過して、それについては検査を実施しなかつたであろうことなどおよそ考えられないこと、しかして、右鑑定の対象となつた本件白シャツの付着物は、血痕様の褐色汚斑であつたこと。

(七)  ところで、科捜研においては、前記本件白靴や本件白シャツと同時に、被害者である松永夫人の血液(犯行現場の畳に付着していたもの)及び被疑者である原告隆の血液についても鑑定がなされたが、その血液型はいずれもBM型であつたこと、そのため捜査本部では、右結果が一応判明した同年九月中ころ、松木医師に右両者を識別する方法がないものかを相談し、その結果Q式血液型検査を試みることになつたこと、松木医師は、検査に必要な血清を東北大学法医学教室から譲り受けたうえ、これを使用して、まず畳に付着していた被害者の血液と被疑者の生血につき検査したところ、被害者の血液型はQ型、被疑者のそれはq型であることが判明したこと、その後同年一〇月ころ、科捜研から返還されてきた本件白シャツにつき同様の検査を行つたところ、本件白シャツ付着の血痕はQ型と判明したこと、このとき血痕試験、人血試験などの他の検査は実施しなかつたこと、しかしながら、右検査は、本件白靴に関する松木鑑定と同様、正式の鑑定としてなされたものではなく、随時捜査当局から要請に基づき、当りをつけるために予備的な検査としてなされたものであつたため、松木医師は、本件白シャツについてはさらに東北大学医学部法医学教室に鑑定を依頼するよう捜査当局に進言したこと。

(八)  弘前市警察署長は、同月一七日、東北大学医学部法医学教室の三木敏行助教授に本件白シャツ外二点の鑑定を嘱託したが、その際の鑑定事項は、(1)被疑者の血液型、(2)本件白シャツに付着している人血につき血液型はQであるかqであるか、(3)畳床藁(被害者の血液が多量付着して凝固したもの)につきその血液型はQであるかqであるか、というものであつたこと、三木助教授は、同日から同月一九日まで鑑定をなし、(1)被疑者の血液はBMq型に属する、(2)本件白シャツにはQ型の血液が付着している、(3)畳床藁にはQ型の血液が付着しているとの結論を得、その旨記載した鑑定書を提出したこと、検察官沖中益太は、同月二〇日ころ、右鑑定書を得て、同月二四日、原告隆を殺人の罪で起訴したこと。

(九)  松木明・間山重雄作成の昭和二四年一〇月一九日付鑑定書には、鑑定結果として、本件白シャツに付着している斑痕は人血であり、その血液型はABO式においてはB型、Q式においてはQ型であると記載されている一方、右鑑定が同月一五日付嘱託に基づいてなされ、同月一九日付で鑑定書が作成された旨も記載されているが、これは事実とは異なること、すなわち、実際には前記(二)、(七)説示のとおり、同年八月二三日ころ(本件白シャツに付着していた斑痕の人血およびB型に関する検査)と同年一〇月ころ(Q型に関する検査)の二回にわたつて行なわれた鑑定結果をさも一回で行なつた如く記載したものであること、そして、そのような鑑定書が作成されるに至つたのは、前記1(六)説示の経緯に基づくこと、右鑑定書の鑑定主文(一)ないし(三)によれば、斑痕ロ点も血液で、しかも人血であり、その血液型はBQ型であるというのに、同鑑定書添付図参のロ点に関する説明では「血液人血Q」と記載されているのみで、B型である旨の記載がないこと、また、鑑定主文には「尚図参のハ点、ニ点について血液試験を行つたところ、顕著な血液反応を示した。」と記載されているのに対し、図参のハ点、ニ点の説明では、いずれも「血液(人血及び血液反応は行わなかつた)」と矛盾する記載がなされていること、したがって、右鑑定書の記載からはそのいずれが真実の鑑定結果を記載したものであるか判断し難く、少なくとも鑑定書の記載の仕方としては極めて不正確、不適当であること、さらに、同鑑定書の「二、斑痕付着の状況」の項に、「ヘ点及びト点は上方斑痕部に平行した近くから滴下した如く認められ……」とあるが、図参のト点は斑痕の付着している個所とは認められないうえ、図四をも合せ考えれば、右「ヘ点及びト点」とあるは「ヘ点及びニ点」の誤りと認められること、加えて、同鑑定書添付の図四の「実物大に謄写した(二四・十一日)」なる記載のカッコ内は何を意味するのか不明であることなど鑑定書の記載内容に明白な誤りや矛盾点、不明確な点が多いこと、同鑑定書は、鑑定人松木明、同間山重雄の共同作成名義となつているが、間山重雄は、弘前市警察署刑事課鑑識係に所属していた技手であり、本件には捜査本部鑑識班の一員として指紋採取などの鑑識活動に従事していたこと、同人は、県立弘前中学校卒業後、約五年間国立弘前高等学校(いずれも旧制)の聴講生を経て警察官となり、昭和一八年ころ一旦依願退職した後、終戦後再就職し、昭和二四年四月ころから弘前市警察署に技手として勤務していた者であり、聴講生をしていた当時、同校物理学教室の実験助手をした経験はあるものの、本件発生当時は鑑識係の技手としてわずか数か月の経験を積んだのみであり、他に鑑識に関する講習等を受けたこともなく、ましてや血痕に関する鑑定をしたことなど一度もないこと、したがつて、同人は、本件血痕を鑑定するにつき特別の学識経験を有していなかつたというべきであること。

以上の各事実が認められ<証拠判断略>。

右事実によれば、検察官沖中益太は、科捜研における北・平嶋鑑定をもつてしては本件白シャツに付着していた汚斑が人血であることを証明するには不十分であると考え、右鑑定人両名に対し、その鑑定結果について補足説明を求めるべく、昭和二四年一〇月一四日付捜査嘱託書により、東京地方検察庁にその捜査を依頼しているのであつて、そのことからすれば、同検察官は、本件白シャツに付着している汚斑が人血であることを確認する必要性を十分認識し、この点に細心の注意を払つていたものと推認しうること、したがつて、同月一七日、東北大学の三木助教授に鑑定を依頼するに際しては、まず第一に本件白シャツに付着している汚斑が人血であるか否かを鑑定事項とすべきであるにもかかわらず、敢えてこれを鑑定事項として掲げず、右汚斑が人血であることを前提としたうえで、その血液型がQであるかqであるかのみを鑑定事項としたこと、その後判明した前記捜査嘱託に対する回答によつても、本件白シャツに付着している汚斑が人血であるとは断定しえなかつたこと、他方、松木・間山作成の同月一九日付鑑定書には、本件白シャツに付着している斑痕が人血である旨記載されているものの、同鑑定書の作成経緯、記載内容の正確性、松木医師はともかく間山技手は鑑定人としての学識経験を有していたか否か大いに疑問の存することなどを勘案した場合、刑事裁判の証拠たりうる正式の鑑定書とは到底いえない性質のものであること、本件公訴を提起するまで、右松木・間山鑑定書以外に本件白シャツに人血が付着していることを認める証拠は存しなかつたことが認められ、また、前記1(八)説示の事実関係によれば、検察官沖中益太は、右松木・間山鑑定書の作成経緯等に関する右事実を十分承知していたものと推認するのが相当であり、またその職掌柄これを知るべき状況にあつたものということができる。

3  原告隆方周辺の血痕に関する捜査について

(一)  <証拠>によれば、以下の事実が認められる。

(1) 本件犯行の翌日、現場付近を捜査した警察官は、弘前市大字在府町七九番地所在の高杉隆治方敷地内玄関前付近から表門に至る間に五点、右表門に接してその北側にある潜り戸付近の道路から同路を南方に進み、突き当つて西方に曲つた同町溝江信正宅前路上に至る間に一八点の血痕が点在しているのを発見したこと、これらの血痕につき、引田教授に鑑定を依頼したところ、いずれも人血にしてその血液型はB型であることが判明したこと。

(2) 同年八月八日ころ、同町所在の木村産業研究所前路上において、血痕様斑痕一点が発見されたこと、これを松木医師に鑑定依頼したところ、人血にしてその血液型はB型であることが判明したこと。

(二)<証拠>によれば、以下の事実が認められる。

(1) 昭和二四年八月八日ころ、原告隆宅の東側隣家である齋藤みよ方玄関前の敷石上に斑痕六点が発見されたこと、これらの斑痕を松木医師に鑑定依頼したところ、血液で、人血であり、その血液型はB型であることが判明したこと。

(2) 同月八日ころ、右齋藤みよ方宅地内にある道路側の笹藪の笹の葉に付着していた斑痕七点、原告隆方宅地と齋藤みよ方宅地との境界に設置されていた垣根のうちで原告隆方宅地内にある笹の葉に付着していた斑痕八点が発見されたこと、これら笹の葉に付着していた斑痕につき松木医師に鑑定依頼したところ、あるものは血液で、人血である(血液型は不明)が、あるものは血液でないことが判明したこと。

(3) 同月八日ころ、齋藤みよ方潜り門(小門)敷居上に付着していた斑痕二点が発見されたこと、松木医師の鑑定によれば、右斑痕は人血で、その血液型はB型とのことであるが、これを裏付ける鑑定書は存しないこと。

(4) 同月一〇日ころ、原告隆宅便所付近の石に付着していた斑痕一点が発見されたこと、これを松木医師に鑑定依頼したところ、右斑痕は血液ではないことが判明したこと。

(5) 同月一四日ころ、原告隆方北側の同市大字覚仙町に所在する佐藤くに方裏入口付近の漬物石上に付着していた斑痕一点が発見されたこと、これを松木医師に鑑定依頼したところ、血液で、人血であり、その血液型はB型であると判明したこと。

(三)  <証拠>によれば、路上から採取した血液、敷石に付着していた血痕、那須方裏から採取した血痕について科捜研で鑑定がなされ、その結果いずれも血痕反応は陽性であつたが、人血反応は不詳であつたこと、血液型はいずれもB型で、路上から採取した血液についてはM型であることまで判明したが、右にいう路上から採取した血液、敷石に付着していた血痕、那須方裏から採取した血痕とは、前記(一)の(1)、(2)、(二)の(1)ないし(5)の各斑痕のいずれを指すのか、またそれらとは別個のものであるかについて、本件各証拠を検討するも十分に特定することができない。

(四)  <証拠>によれば、以下の事実が認められる。

(1) 前記高杉隆治方前路上から前記溝江信正方前路上を経て前記木村産業研究所前路上に至るまでの間には、前示のとおり血痕が点在し、各血痕間の距離は概ね数メートルないし数十メートルあり、最長のものでは約七五メートルもあること、しかるに、木村産業研究所前から同路を北進し、在府町に突き当つた角を西方に曲り、前記齋藤みよ方前路上に至る間の距離は約一九〇メートルであるが、この間には血痕ないし血痕様斑痕は一つも存しなかつたこと(別紙(三)参照)。

(2) 唐牛哲夫は、昭和二四年八月七日、警察犬を使つて前記高杉隆治方離座敷東側窓下の草の踏みつけられた跡の臭いを頼りとして二回にわたり犯人の足取りを追跡させたところ、その経路は、右東側窓下から北方へ、次いで西方へ進み、離座敷の南西方向に接続している高杉隆治方母屋をひとまわりして表門付近に出たあと、木村産業研究所との境に近い生垣を抜けて右表門前を南北に走る道路に出、前記路上血痕滴下のあとをたどつて同研究所前を北方へ直進し、在府町の丁字路に突き当る少し手前西側の杉見方空地内に入つて同所の井戸のまわりをめぐつて再び元の道路に戻り、右丁字路を西方へ折れて齋藤みよ方へ至る手前の高谷英稔方前路上まで続いていること(別紙(三)参照)。

(五)  以上鑑定の各事実を総合すれば、原告隆方付近で発見された血痕様斑痕のうち、人血でB型であることを認めている鑑定書は、<証拠>(齋藤みよ方玄関前の敷石上の血痕に関するもの)と<証拠>(佐藤くに方裏入口付近の漬物石上の血痕に関するもの)のみであり、これとても人血でB型であるというだけでは必ずしも被害者の血液に由来するものとは断定しえないうえ、右二通の鑑定書は、前記1(六)及び(八)で説示したように、正式の鑑定書というべき性質のものではなく、検察官沖中益太も右事情を知つていたものと推認されること、右(四)(1)及び(2)で説示した事実からすれば、高杉隆治方前から溝江信正方前を経て木村産業研究所前へ至る路上に点在する血痕が仮りに被害者の血液に由来するものであるとしても、これと原告隆方周辺の血痕ないし血痕様斑痕との間に関連性があるものとはにわかに認め難いこと、さらに、原告隆方周辺の斑痕のうち前記松木鑑定により血液と認められたもののすべてが血痕であつて、しかも犯人が逃走する際滴下もしくは付着せしめたものであると仮定しても、それらの血痕が犯人が原告隆宅へ逃げ込む際に生じたものであるとみるのは、その付着状況からしてあまりに不自然であることに鑑み、公訴提起時において、右二通の鑑定書をもつて原告隆方周辺の血痕様斑痕が被害者の血液に由来するものであると認めることはすこぶる危険であつたといわなければならない。

4  大沢信江の供述について

<証拠>によれば、以下の事実が認められる。

(1)  本件発生当時、被害者松永すず子は、夫藤雄が不在であつたので、長女及び群馬県から遊びに来ていた実母大沢信江(当時五九歳)とともに、前記高杉隆治方離れの階下八畳間に蚊屋をつつて寝ていたこと、右三名は、午後一〇時ころ、頭を西方に向け、南側から順次被害者すず子、長女、大沢信江の順に寝たが、その際部屋には二燭光の小さな豆電球をつけていたこと、その後間もなく本件が発生し、犯人を目撃したのは大沢信江ただ一人であつたこと。

(2)  大沢信江は、被疑者として原告隆が逮捕された後の昭和二四年八月三一日、青森地方検察庁弘前支部において、検察官沖中益太に対し、自分は犯人の横顔と後姿を見ており、今でも犯人の横顔や後姿を見せてもらえばその人が犯人であるか否か判断がつくと思うと述べ、さらに同日、中津汗軽地区警察署において、写真屋のガラス窓から当時被疑者として逮捕された原告隆の横顔と後姿を透視したうえ、同検察官に対し、私が見た犯人とそつくりであるし、右側から見た横顔の輪郭や、後から見た姿も全く同一であり、今日見せてもらつた男と私が見た男とが余りにも酷似しているので、この男に娘があのようなひどい目に会わされたのかと思い、つい気分が悪くなつたくらいである旨述べていること。

(3)  しかるに、大沢信江は、原告隆が被疑者として逮捕される以前の同月八日、弘前市警察署において、警察官に対し、その晩は寝るとき二燭光の小さな電気をつけていたので、娘を殺した犯人の顔はほとんど見えなかつたが、服装だけはだいたい見たと述べていること。

以上の各事実が認められ、右事実によれば、大沢信江は犯人の顔をよく見たわけではなく、面通しの際もただ単に犯人の横顔と後姿の輪郭から受けた印象をもつて原告隆を観察したに過ぎないものと認められるうえ、同女の検察官に対する前記供述がなされた時期も原告隆が被疑者として逮捕された後であることをも考え合わせれば、同女の前記供述をたやすく措信することはできず、したがつて、それだけで原告隆が犯人であると認定するには極めて不十分であるというべきである。

5  犯行の動機等に関する捜査について

(一)  検察官は、変態性欲者である原告隆がその満足を得る目的で本件を犯したことを根拠に公訴を提起したことは起訴状の記載自体から明らかであり、そして、<証拠>によれば、原告隆は、以前栗田敦夫の義姉赤平としえから離婚話の相談を受けたことがあつたので、昭和二四年八月一六日ころ、夫の不在中に同女方を訪れ、所用をすませた後、夕飯をご馳走になつて同女方に泊つたことがあるが、その際同女と同じ部屋で就寝したことがあり、そして、雑談中、同女に対し、お前の妹である栗田の妻が殺されるかも知れないといつたり、栗田方に遊びに行つて泊る際には必ず若い栗田夫婦の傍に寝ていたことがあるばかりでなく、本件後栗田敦夫に対し、実際にはその事実がないのに松永夫人を二、三回見たことがあると話したことや、通信警察官を退職後、以前同じ職場にいた女性に対し、全く知らない若い女の写真を見せて、この人を妻にもらうのだと話すなど、見栄を張つたり、誇張する一面がある一方、自説をまげない強情な面もあることが認められる。しかしながら、これらの事実だけでは、原告隆が変態性欲者であるとは断定しえず、したがつて、検察官が本件犯行の動機につき変態性欲者がその満足を得る目的としたことはいささか早計であつて、事の真相を見誤つたものというべく、他に本件公訴提起当時、検察官において本件犯行の動機を立証しうる証拠を入手していたと認めるに足りる証拠はない。

もつとも、<証拠>によれば、鑑定人丸井清泰は、原告隆の性格に関し、多数の参考人の捜査官に対する供述調書を参酌し、「表面柔和に見えながら、内心即ち無意識界には残忍性、サディスムス的傾向を包蔵しており、相反性の性格的特徴を顕著に示す。精神の深層即ち無意識界には婦人に対する強い興味がうつ積していたものとみることができる。」と鑑定しているけれども、鑑定書に引用されている参考人らの供述内容を子細に検討しても、原告隆が変態性欲者であると認めるに足る科学的ないし合理的根拠は見い出すことができないので、右鑑定書はその前提を欠くものであつて、到底採用の限りではない。

(二)  また、<証拠>によれば、原告隆は、昭和二四年八月一〇日ころの晩、菊池徳三郎方前で、小野三郎らと松永事件(本件)の話をしたとき、被害者はメスのようなもので殺されたのではないかと話したことがあり、また、同月一六日ころには、赤平としえに対し、松永夫人が殺された状況や殺害現場の様子を具体的に話したうえ、犯人は容易に判らないといつたり、紙一枚でも人を殺せるとか、人に気付かれないで部屋に侵入する方法や音をたてないで歩く方法についての話をし、さらに泥棒はタンスを下の方から開けるが、普通の人は上の方から開けるなどと話しており、また、栗田敦夫に対しても、人が寝ている部屋に相手に気付かれないように入るには寝ている人と呼吸を合わせて入ればよいとか、人の眠つている顔に半紙をぬらして張れば死ぬと話すなど、松永事件に非常に関心を持つていたことが認められるが、本件のような地方における衝撃的な大事件については原告隆ならずとも少なからぬ関心をいだいたであろうことは容易に推測されるうえ、<証拠>によれば、原告隆は、青森県通信警察官を依願退職したのち、昭和二三年夏ころから定職に就かず、自宅において家事手伝いなどをしながら職を探していたのであり、特に警察官を強く志願していた関係もあつて、これまでにも警察の捜査に協力していたばかりでなく、本件の捜査にも協力するなど犯罪の捜査に少なからぬ関心を有していたことが認められるのであるから、前示の如き原告隆の言動は必ずしも特異なものとはいえず、ましてや原告隆が犯人であることの状況証拠としてはあまりに根拠薄弱なものというほかはない。

(三)  以上によれば、原告隆には本件犯行の動機がなく、また、本件発生前後の原告隆の言動も、右(二)で説示した事情を考慮すれば、格別異とするに足りないものであることが明らかである。

6  アリバイに関する捜査について

<証拠>たよれば、原告隆は、警察及び検察庁における取調べにおいて、当初、本件が発生した昭和二四年八月六日の晩は向いの菊池泰一方に将棋をさしに行き、午後一〇時ころに帰つて寝たはずだと述べ、次いで、菊池さんの所に将棋をさしに行つていないとすれば、その晩は家にいたと思いますと述べ、その後、八月六日のことはいくら考えても記憶に浮んできませんと述べ、さらに、八月六日の晩は公園に行き、午後一〇時過ぎに帰つたと思うとか、映画館へ「四ツ谷怪談」を見に行き、午後一〇時半ころ帰宅したと述べるなど、捜査官に対する供述が目まぐるしく変転した後、再び、八月六日の晩は家にいて外出していないと供述するに至つたことが認められる。また、<証拠>によれば、八月六日の晩の原告隆の行動について、家族らの供述もまちまちであることが認められる。以上のように、本件発生当夜の原告隆の行動について明確なアリバイは存在しない。しかしながら、そのことのみをもつて直ちに犯人と断定することはできず、この点も原告隆を犯人とする証拠たりえないというべきである。

のみならず、<証拠>によれば、亡資豊は、昭和二四年九月一二日、警察官の取り調べに対し「尚六日の晩静子の造花を芳子が買いに出て帰つたのは午後一〇時ころで、その時は隆が家に居つたということも聞きました。私は妻から八月六日の晩、隆は午後一〇時ころ外から帰つて来たということを聞きました。」と述べていること、原告芳子は、原一審において、同年八月六日午後七時ころ、夕飯を食べてから、同月八日に原告静子が田名部で開催される子供の遠唱会に行く際服につけて行く造花を買いに原告静子とともに出かけ、紅いバラの造花を買つてから友人である一町田きみ宅に立ち寄り、同女と一緒に土手町を散歩し、午後一〇時ころ家に帰つたが、そのとき原告隆は家におり、その後間もなく原告隆と一緒に一〇畳間に寝た旨証言していること、一町田きみは、原一審において、同日午後七時半ころ原告芳子と同静子が自宅に立ち寄り、一緒に造花を買いに出かけ、土手町を歩いたのち同女らと別れ、午後一〇時ころ自宅へ帰つたところ、その後同年九月ころ、自宅において、私服の刑事から、「八月六日那須芳子と買物に行つたか。」と聞かれたので、「行きました。」と答えたが、他に八月六日の晩の行動を聞かれたことはない旨証言していること、右両名の証言は極めて具体的かつ自然で信憑性の高いこと、原告芳子、同静子は、八月六日の晩買物に出かけたことにつき捜査官の取り調べを受けたことはないことが認められる。右事実の一部は本件公訴提起後に判明したものとはいえ、少なくとも同年九月一二日以降、原告芳子、同静子、一町田きみを取り調べ、その結果に基づきさらに原告隆を取り調べることにより、同年八月六日午後一〇時ころには原告隆は家におり、その後妹たちと一緒に同じ部屋に寝たことが判明したかも知れず、そして、そのことは、原告隆のアリバイが成立することを推認せしめる極めて重要な証拠であることが明らかである。

7  その他の捜査について

(一)  <証拠>によれば、原告隆は、昭和二四年八月二二日逮捕されて以来一貫して自分は犯人ではないと無罪を主張し続けたことが認められる。もつとも、<証拠>(原告隆の司法警察員西田留蔵に対する同年九月六日付供述調書)によれば、「去る八月六日のことについて此れ迄色々嘘を申上げ誠に申訳ありません。これから正直に申上げます。」との記載に続いて、「此の時午後八時四十五分被疑者は室内から事件発生後一ケ月犯行当夜の月を眺め全く善に立帰つた表情を見せ、今度は謝まりますと過去の罪悪を今此処に自白せんとの態度で本職に申立した。」と記載されていることが認められるが、同調書の記載によつてもその後原告隆は犯行を自白しているわけではなく、八月六日の晩は弘前市百石町の大和館へ「四ツ谷怪談」を見に行き、午後一〇時過ぎころ同館を出て家に帰つて寝た旨本件犯行を否認する供述をしているのであるから、同供述調書中の前記記載は、警察官西田留蔵の単なる印象を記載したにすぎないものというべきである。また、<証拠>(原告隆の司法警察員横山博に対する同年九月三日付供述調書)によれば、「私が八月六日の午後一〇時二〇分に家に帰つておりますが、若しそれ以後他の何処かで私を見た人があればそれを認めます。又被害者の母が私であるというのであればそれも認めます。」との供述記載があることが認められるが、右供述自体不自然で犯行の自白とはいえないうえ、同供述調書中の他の部分では、八月六日の晩は公園へ月を見に行き、午後一〇時二〇分ころ家に帰つて寝たと述べながら、そのすぐ後の部分では、「私は八月六日午後一〇時二〇分ころ家に帰つたと今まで申し上げておりましたが、それは違うようであります」と述べるなど、同供述調書中の供述は矛盾していて極めて不自然であるから、前記供述部分をとらえて犯行の自白とみることは到底できないというべきである。さらに、<証拠>(原告隆の司法警察員西田留蔵に対する同年九月八日付供述調書)によれば、原告隆は、「裁判の結果無期懲役になろうとどうなろうと裁判長の認定に任せます、控訴する気持はありません」と述べていることが認められるが、他方、同人は同供述調書中で、「自分は記憶のない点と証人のことで困つている」と、また、「八月六日の晩は大和館に『四ツ谷怪談』を見に行つたと思う」とも述べており、決して犯行を自白しているわけではないのであるから、前記供述をもつて犯行の自白と見ることもできない。

以上によれば、原告隆は、終始一貫して犯行を否認し、無実を主張したと見るべきである。

(二)  <証拠>によれば、本件白靴及び本件白シャツは、昭和二四年八月二二日弘前市警察署勤務の司法警察員に押収されたもので、本件の重要な証拠物であつたこと、原告隆は、逮捕以来公訴の提起された同年一〇月二四日までの間、本件白靴に血痕が付着しているはずはないと供述していたにもかかわらず、この間本件白靴を示されて取調べを受けたことは一度もなかつたこと、本件白シャツについても、公訴提起前にこれを示されたうえ弁解を求められたことは一度もないばかりか、本件白シャツに血が付いていることを知らされ、弁解を求められたのは、公訴提起の日である同月二四日が最初であつたことが認められる。しかしながら、本件白靴と本件白シャツは、本件における最も重要な物的証拠であるうえ、原告隆は一貫して犯行を否認していたのであるから、検察官としては、このように重要な物的証拠については、なによりもまずこれを原告隆に示して弁解を求め、さらには反証の機会を与えるなど十分配慮のうえ捜査を尽す必要があつたというべきである。

(三)  <証拠>によれば、本件犯行に使用された凶器は鋭利な刃物で比較的薄く、刃の幅もあまり広くないうえ、それほど重いものではなく、また、刃渡りを推測するのは困難であるが、七センチメートル前後から一五センチメートルくらいまでと推定されること、検察官は凶器が大型ナイフであるとして原告隆を起訴したことが認められる一方、<証拠>によれば、原告隆は、昭和二三年五、六月ころ原告芳子からもらつた小型の折込み式ナイフを持つていたことはあるが、それは同女が以前弘前師団司令部参謀長の給仕をしていたときに同参謀長からもらつたもので立派なものであり、他にジャックナイフや大型ナイフを持つていたことはないことが認められ、他に原告隆が本件犯行に使用されたと思料される凶器を所持していたことを窺わせるに足る確たる証拠はなく、また、凶器が発見されていないことは証拠上明らかである。

以上によれば、凶器に関する捜査の結果によつても、原告隆を犯人とする証拠は何ら存しなかつたとみるべきである。

8  以上の認定事実を総合すれば、原告隆は逮捕以来終始一貫して無実を主張し続けていたのであり、しかも同人には犯行の動機とて見当らないうえ、犯行に使用された凶器も発見されていないばかりか、そのような凶器を原告隆が所持していたとも認められないこと、原告隆方周辺の血痕様斑痕も被害者の血液に由来するものであることを認めるに足る確たる証拠は何一つとして存在せず、目撃者大沢信江の検察官に対する供述も、警察官に対する供述と対比検討すれば決定的証拠とはなりえないこと、逮捕状請求の決定的根拠となつた本件白靴に付着していた血痕は、これが押収された直後人血でその血液型はB型であると判定されたことがあつたけれども、その後、鑑定の結果、血痕であることすら証明されなかつたこと、以上の状況下において、唯一の物証である本件白シャツに付着している汚斑が血液であることは判明したものの、さらにそれが人血であるか否かが最も重要な問題となり、検察官沖中益太もこの点に思いを致し、これを確認することが犯人を割り出すために極めて重要であることを十分認識し、この点を解明すべく捜査嘱託して、人血と断定しえないとの結論を得ていたにもかかわらず、いかなる理由からか、本件白シャツの血痕についての吟味を打ち切り、人血であることを確認することなく、ただその血液型が被害者のそれと一致することのみを確認しただけで、本件公訴を提起したものと認められる。ところで、仮りに本件白シャツに人血が付着していることを立証しえないとすれば、通常の検察官の立場に立つてみても、本件においては他に原告隆が犯人であることを認めるに足る確たる証拠は何一つ存しないことに帰するとみるべき事案であるから、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存したとはいえず、したがつて、この時点で、検察官としては、公訴を提起しえない事態に立ち至つたものと判断し、殺人罪についての公訴提起を差し控え、さらにこの点の捜査を尽し、人血であることを確認したうえ、しかる後に起訴すべき職務上の注意義務があるというべきところ、検察官は右注意義務を怠り、本件白シャツに付着していた血痕が人血であるとの確認をしないまま本件公訴を提起したものであつて、本件の公訴提起につき、犯罪の嫌疑が十分で有罪判決を期待しうる合理的根拠が存したものとは認められないから、その公訴提起は違法というべきである。そして、捜査段階において収集したすべての証拠を、予断、偏見を捨て公平な立場から総合検討して公訴を提起するか否かを決定することは、検察官にとつて最も重要な職務である。したがつて、公訴の提起にあたり、右のような職務上の注意義務を怠つた違法があつた場合には、その違法の態様、程度からして、少なくとも当該検察官に過失があつたと推認するのが相当である。

四公訴追行の違法性及び過失

1  公訴追行も公訴提起と同様、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存しないにもかかわらず、これがなされた場合には、その追行が違法となることは論を俟たないところであり、そして、公訴追行は、検察官の主張である公訴事実(正確には訴因)を自ら入手し、あるいは入手可能な証拠により証明していく過程であるから、公訴の提起が違法である以上、その後の訴訟追行過程で有罪判決を期待しうる合理的根拠が存在するに至るなどの特段の事情が生じない限り、これもまた違法となると解するのが相当である。

2  そこで、本件についてこれを見るに、<証拠>によれば、原一審は、本件白シャツにつき、弁護人申請の鑑定を採用し、その鑑定を東京大学教授古畑種基に命じたところ、同鑑定人はその作成にかかる鑑定書を提出したので、これが取り調べられたこと、その鑑定主文第一項に「本件白シャツには人血痕が付着していると判定する。」と記載されていることが認められる。そこで、その鑑定結果により、前記説示の公訴追行の瑕疵は治癒され、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存在するに至つたと見うるか否かを検討する。

まず、本件訴訟にあらわれた全証拠及び弁論の全趣旨を検討しても、本件公訴提起時、検察官において右古畑鑑定の入手を予定もしくは期待していたことは全く窺われないから、右古畑鑑定が原一審に提出されたことによつて、検察官の公訴追行の違法は治癒されないと解するが、それのみならず、<証拠>によれば、以下の事実が認められる。

(一)  右古畑鑑定がなされた当時本件白シャツに付着していた血痕は、犯行現場の畳表に付着していた血痕と同様の赤褐色を呈していたこと、昭和二四年一〇月一七日ころ、前記三木鑑定がなされた当時本件白シャツに付着していた血痕も赤褐色であつたこと、しかるに、それ以前の同年九月一日ころ、科捜研において前記北・平嶋鑑定がなされた当時本件白シャツに付着していた汚斑は褐色であり、さらに同年八月二四日ころ、前記引田教授が本件白シャツを肉眼で検査した当時本件白シャツに付着していた汚斑は褪灰暗色(正確には帯灰暗色)で、路上の血痕とは著明に違つていたこと。

(二)  前記古畑鑑定人は、一般に血痕は新鮮なうちは暗赤褐色を呈し、時日を経過するに従つて赤褐色、褐色、帯緑褐色、灰色と順次変化するとの見解を有しており、引田一雄も血痕は古くなればなるほど赤色から灰色に変化するものと考えていること。

(三)  引田一雄は、北海道帝国大学医学部を卒業したのち、台湾の台北帝国大学医学部法医学教室に勤務した後、北海道帝国大学教授等を経て、本件発生当時は青森医学専門学校法医学教室の教授であり、台北帝国大学に在職していた当時「血痕の経時的変色について」と題する研究論文を発表している程の業績をもつ法医学者であること、同論文の内容を見るに、同人はろ紙上に家兎血液を一滴滴下したものを多数作り、これらを屋外、屋内、暗所の三条件に分けて実験を試みた結果、(イ)暗所に置いた場合血痕はほぼ一週間目に至るまで変色し、それ以後は九か月後に至るまで暗赤色の色調を持続する、(ロ)室内に置いた血痕は九日目ないし一〇日目ころまで変色を続け、その後は埃の影響を受けない限り九か月後に至るまで変化しない、(ハ)直接外気に曝した血痕は、室内及び暗所に置いた血痕に比し速かに黒変し、かつその黒色の度は最も強い、そしてほぼ二週間後に至つて灰白褐色となり、その後漸次灰白色の度を増加する、(ニ)白木綿付着の家兎血痕の色は約二か月後屋外では灰白色、室内では赤褐色、暗所でも赤褐色である、と報告していること。

(四)  右の各見解に従うと、本件発生当時、本件白シャツに人血が付着したとすれば、その血痕の色合いは、原告隆がこれを本件発生後毎日作業用に使用していたとしても、押収された昭和二四年八月二二日当時は黒味を帯びた色合いのものであり、室内に置いたままの状態であつたとすれば赤褐色の色合いを保つていたと推定されること。

以上の各事実が認められる。右事実によれば、少なくとも三木鑑定及び古畑鑑定がなされた当時本件白シャツに付着していた斑痕の色合いや、本件発生当時本件白シャツに血痕が付着したと仮定した場合、本件白シャツが押収された当時における血痕の色合いと引田教授による肉眼検査がなされた当時の斑痕の色合いとの間には明瞭な相違があり、しかも、右認定のような特別の研究業績をもつ引田教授が、本件白シャツ付着の斑痕の色合いにつき、三木鑑定もしくは古畑鑑定にいう「赤褐色」または右に仮定した「黒色」もしくは「赤褐色」を「帯灰暗色」と誤認するようなことはないと解される。してみれば、古畑鑑定当時、本件白シャツに付着していた血痕が、果して引田教授による肉眼検査がなされた当時にも付着していたかどうかについては重大な疑問があるといわざるをえない。そして、<証拠>によれば、検察官は、原告隆が本件公訴を提起する以前からこの点を強く争つていたことは十分承知していたことが認められるから、検察官としては、古畑鑑定当時における血痕の付着状況と本件白シャツが押収された当時または引田教授による検査がなされた当時における斑痕の付着状況とが同一であることを確認するなどの捜査を尽して右疑問点を解明しない限り、前記古畑鑑定書をもつて本件発生当時本件白シャツに人血が付着していることの証拠とはなしえず、したがつて、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存在するに至つたともいえないと解するのが相当である。

なお、古畑鑑定当時における血痕の付着状況と本件白シャツが押収された当時または引田教授による検査がなされた当時における斑痕の付着状況とが同一であると仮定すると、(1)前記三2(三)説示のように、本件白シャツにつき、いつたんは引田教授に鑑定依頼がなされたにもかかわらず、その鑑定が終了しないうちに警察官がこれを理由も告げずに持ち帰つたのはいかなる事情によるのか、また、右鑑定依頼の際、本件白シャツは重要な証拠物であるから、本件白靴と同様他の証拠物とは別扱いにされて然るべきところ、他の鑑定物件とともに十把ひとからげにしてこうりに入れ、鑑定人のもとに運び込んだのはなぜか、(2)<証拠>によれば、本件白シャツにつき、昭和二四年一〇月一七日、東北大学の三木助教授に鑑定の依頼がなされ、その鑑定資料は鑑定期間中全部同鑑定人によつて保管されていたが、本件白シャツだけは同日間山技手が持ち帰つたことが認められるが、これはいかなる理由によるのか、(3)<証拠>によれば、検察官沖中益太は、原告隆が本件犯行に使用した凶器を隠匿し、アリバイに関し虚偽の供述をしていると主張していることが認められるが、そうだとすれば、右のように証拠湮滅工作までする原告隆が、犯行後逮捕されるまでの間、被害者の返り血をあびたとされる本件白シャツを着て庭仕事をしていたことになるが、それはいかにも不自然であること、(4)前記三7(二)説示のとおり、原告隆は捜査官による取調べを受けた当初から本件犯行を強く否認していたのであるから、捜査段階において、本件白シャツを原告隆に示し、弁解を求めるのは、捜査の常道であると解されるところ、警察官は勿論、検察官も一度も本件白シャツを原告隆に示して弁解を求めていないのはいかなる理由に基づくのか(本件白シャツが押収されてから原告隆が起訴されるまで二か月間もあつたのであるから、本件白シャツが前記三2説示のとおり、しばしば鑑定に供されたとしても、原告隆にこれを示して弁解を求めるくらいの時間的余裕は十分あつたはずである。)など多くの疑問が生ずる。この点からしても、前記疑問点の解明は、前記古畑鑑定書を証拠とする場合、避けることができないものというべきである。

3  さらに、<証拠>によれば、いずれも原一審及び原二審において証人として取り調べられた川村としえ、竹内栄二、竹内とみ、沢口謙蔵、吉谷寅吉、佐藤忠司、原一審において証人として取り調べられた小山内いと、原二審で証人として取り調べられた乳井節らは、本件発生の一時間くらい前または一時間くらい後に、本件現場付近で原告隆に似た体格、服装をした男を目撃した旨証言していることが認められるけれども、これらの証言はいずれも極めてあいまいで、到底目撃した男が原告隆であると特定しうるような内容ではないから、これらの証言によつても有罪判決を期待しうる合理的根拠が存在するに至つたとはいえず、他に公訴追行の過程において、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存在するに至つたとみるべき証拠は何ら存しない。

4  以上によれば、訴訟追行の過程において、有罪判決を期待しうる合理的根拠が存在するに至つたと見るべき特段の事情は存しないにもかかわらず、検察官沖中益太は、公訴を追行し、原一審においては極刑の求刑をなし、これに対し無罪判決が言い渡されるや、前記疑問点を解明することなく控訴を申し立て、さらに原二審担当検察官も原告隆に対する有罪判決を得ることにのみ急であつて、右疑問点を解明しないまま訴訟を追行したことが明らかであるから、原一、二審を通じ本件の公訴追行もまた違法というべきであり、その違法の態様、程度からして当該検察官に過失があつたと推認するのが相当である。

5  検察官の本件公訴の提起及び訴訟追行の違法性について、上来認定説示したところによつて、本件公訴提起・追行は国家賠償法上違法行為を構成するものと認められることが明白となつたのであるから、原告らの主張するその余の捜査機関や裁判機関の不法行為についての判断は必要でないと考えるが、なお簡略に付言すると、原告らの主張する本件起訴前の逮捕、勾留、押収、鑑定留置等に関する違法は、本件全証拠を検討するも、これを肯定するに足る確たる証拠は存しないから、この点に関する原告らの主張は理由がない。すなわち、すでに説示した諸事情に照らせば、捜査段階においては原告隆が本件殺人の罪を犯したと疑うに足る相当な理由があつたものということができ、本件事案の性質上、右被疑事実により逮捕・勾留・押収・鑑定留置がなされたことはやむを得ない措置というべきである。

原告らは裁判所の過失をも主張するので言及すれば、上来認定の諸事実に照らせば、原二審裁判所は本件殺人事件につき原告隆に有罪判決を言い渡したが、同裁判所に対し、本件で問題とされた各証拠の全部が提出された訳ではないから、同裁判所が取り調べた各証拠を検討して有罪の認定をしたことについては、自由心証の範囲を著しく逸脱したものとは認め難く、所論の過失はない。然して上告裁判所が上告棄却したことについても同様所論の過失はない。

五なお、被告は、本件の鑑識関係文書を新たに発見し、これによつて本件刑事記録に検討を加えた結果、本件再審開始決定及び再審判決は、本件白靴、本件白シャツに対する証拠評価を誤つている旨主張する。しかし、被告主張の鑑識関係文書を踏まえて検討しても、本件再審開始決定及び再審判決の認定評価は首肯するに足りること前記認定説示のとおりであつて、原告隆は無辜にもかかわらず、本件殺人事件につき逮捕・勾留されたうえ、起訴までされて有罪判決を受け、長期間服役したものというべきであるから、被告の右主張は理由がない。

六因果関係

すでに前記一で認定したとおり、原告隆は、殺人の罪で公訴を提起された後、原一審において無罪の判決が言い渡されるまで身柄を拘束されて一旦は釈放されたものの、原二審において、一転して懲役一五年に処する旨の有罪判決が言い渡され、その刑の執行を受けるに至つたが、検察官による本件公訴の提起、追行がなかつたならば、原一審における長期の身柄拘束は勿論、原二審判決による刑の執行等もなかつたことが明らかであるから、検察官による本件公訴の提起、追行と原一審における身柄拘束ならびに原二審判決及びその執行等により原告隆が被つた後記損害との間には相当因果関係があるというべきである。

七被告の責任

以上によれば、被告は、検察官が職務を行うにつき、他人に違法に加えた損害を賠償する責に任ずる地位にあることは当事者間に争いがないから、被告は、国家賠償法一条に基づき、検察官の違法な公訴の提起、追行により原告隆が被つた損害を賠償する責任がある。

八損害

1  原告隆

(一)  逸失利益

<証拠>によれば、原告隆は、本件公訴提起当時満二六歳の健康な独身青年であり、無職ではあつたが、警察官になるための試験を受けるべくその準備をしていたことが認められ、他方、同人が、昭和二四年一〇月二四日から昭和二六年一月一二日まで、及び昭和二七年六月五日から昭和三八年一月八日までの間、被告人もしくは受刑者として身柄を拘束されたことは当事者間に争いがなく、そして、右のような身柄の拘束がなければ右の期間稼働し、相当額の収入を得られたものと推認することができる。そこで、昭和二四年から昭和三二年までは総理府統計局編集日本統計年鑑(第八回)の常用労働者毎月平均現金給与額(ただし、昭和三二年の給与額は昭和三一年のそれを用いる。)を、昭和三三年から昭和三八年までは労働大臣官房労働統計調査部発行労働統計年報の産業計企業規模計男子労働者の平均月間きまつて支給する現金給与額を、それぞれ基準として各年における平均年間給与額を算定し、さらに身柄拘束日数が一年に満たない年については日割計算によつて身柄拘束期間中の得べかりし利益を算定したうえ(円未満切捨て)、各年の得べかりし利益を合計すると金二七二万九二〇一円となるが、その詳細は別紙(四)記載のとおりである。

なお、本件のような身柄拘束中の逸失利益の算定においても生活費を控除すべきか否かの問題があるが、<証拠>によれば、原告隆は、身柄拘束中も、衣食の差入れや家族との面会等のためにある程度の出費をしていることが認められるうえ、元来、被害者の得べかりし収入額から同人が自己の生活のために費消すべかりし金額を控除すべしとされたのは、この点を斟酌しないと同人が将来得べかりし利益よりも多額の利益を同人に許与することになるとの理由によるものであるところ、少なくとも本件においては、貨幣価値の大幅な下落により事実上右の不都合は生じないことが明らかであるから、生活費は控除しないこととする。

(二)  慰謝料

<証拠>を総合すれば、原告隆は、起訴当時二六歳の青年であつたが、無実でありながら、検察官の過失に基づく違法な公訴の提起、追行により、殺人罪という重大な犯罪で被告人の座に立たされたうえ、変態性欲者との汚名まで着せられ、原一審においては極刑の求刑をされて無罪の判決を得たものの、原二審において懲役一五年の判決を宣告され、約一〇年間もの長い間受刑者として服役したうえ、仮出獄後も再審において無罪判決が確定するまでさらに一四年以上も殺人犯としてひつそくした社会生活を余儀なくされ、さらに捜査、公判を通じ終始一貫して無実を訴え、服役中も無実を晴らしたい一心から、なんとか再審請求ができないものかと日夜思い悩んだ挙句、これを実現すべく、家族らとの間でその旨の文通を繰り返していたばかりでなく、その間、原二審判決において訴訟費用の負担を命ぜられたので、その免除の申立てをするも認められず、かえつて、服役中毎月のように訴訟費用の納付を督促され、これを拒み続けてきたが、出所後就職するに際し、就職先に訴訟費用納付命令書が送達されることを慮つて、やむなくこれを支払い、また服役中体をこわし、出所後約一年間通院生活を余儀なくされたこと、以上のような服役及び出所後の療養生活のため、同人が結婚したのは四〇歳を過ぎてからであること、本件公訴提起以来再審において無罪が確定するまで、原告隆は勿論、その家族らも社会生活において世間から数々のいやがらせを受け、勤務先でも不利益な扱いを受けたこと、那須家は、那須与一の直系の子孫にあたり、源頼朝公から賜つた白旗、那須与一宗隆の太刀(昭和一〇年に文部省から重要美術品としての指定を受けている。)、那須家系図、甲冑、陣羽織、持小旗、宇都宮俊綱の旗、那須家の家紋入りの古旗など多数の古文書、武具等が家宝として保存され、その一部はかつて秩父宮殿下の台覧に供されたこともあるほどの由緒ある家柄であつたが、原告隆の裁判費用等にあてるため、これらの家宝の一部を売却し、さらに当時住んでいた弘前市在府町の家屋敷をも売却するなど、一族の名誉を著しく傷つけられたことが認められる。かてて加えて、原告隆は、起訴以来再審で無実の罪を晴らすまで実に二七年以上を要し、この間二〇歳代後半から三〇歳代にかけて人生の最も有意義な時期を無実の罪により刑務所の中で過すことを強制され、これによつて直接、間接に受けた肉体的苦痛は言うに及ばず、自由を奪われたことにより被つた無念、悔しさなどは、その立場におかれた者でなければ到底理解することができないものであつて、その精神的苦痛は計り知れないものがあるといつても決して過言ではない。これらの事情に後記のとおり、再審請求からその開始決定に至るまでに裁判費用として相当額の支出を要したものと推測されること、逸失利益の算定にあたつては、原則として、その当時の得べかりし収入額を基礎として計算せざるを得ないが、昭和二四年以降約三〇年間に大幅な貨幣価値の変動があつたため、当時の収入額を基礎として算定した場合、その金額は著しく低額とならざるをえず、したがつて、その額を補償しただけでは、被害者の被つた損害を填補することにより損害の公平な分担を図るという国家賠償法の趣旨を全うしえないこと、本件においては得べかりし収入を本訴提起当時まで運用すれば得られたであろう利益(原告らは遅延損害金の始期を訴状送達の翌日としたため)が考慮されないことなどの諸点をも斟酌すれば、原告隆の被つた精神的苦痛を慰謝する金額としては金二〇〇〇万円をもつて相当とすべきである。

(三)  再審請求後再審開始決定に至るまでに要した裁判費用

原告隆は、この点につき種々主張するけれども、本件全証拠によるもその証明が不十分で、他にこれを証するに足る確たる証拠も存しないので、この点に関する主張は理由がないというべきである。もつとも、具体的な数額の算定は不能なるも、同原告が相当額の費用の支出を余儀なくされたであろうことは容易に推測されるが、この点は前示のとおり、慰謝料算定の一事情として考慮するのが相当である。

(四)  差し引くべき刑事補償金

原告隆が、昭和五二年八月三〇日、刑事補償法に基づく補償金として金一三九九万六八〇〇円の交付を受けており、これをその被つた損害額から控除すべきことは同原告の自陳するところであるから、逸失利益と慰謝料の合計額から右刑事補償金を差し引くこととする。

(五)  以上説示したところによれば、原告隆が本件によつて被つた損害は前記(一)及び(二)の合計額から前記(四)の金額を控除した金八七三万二四〇一円となる。

(六)  弁護士費用

<証拠>によれば、同人は弁護士に本件訴訟を委任し、相当額の報酬を支払う旨約したことが認められるところ、本件事案の内容、訴訟経過、認容額等諸般の事情を考慮すれば、本件において被告に対し請求しうべき報酬の額は、金八七万円を下らないものと認めるのが相当である。

(七)  以上によれば、原告隆の損害額は、前記(五)及び(六)の合計額たる金九六〇万二四〇一円となる。

2  その余の原告ら

(一)  亡資豊の財産的損害の相続

原告らは、原告隆の刑事裁判に要する費用を捻出するため、亡資豊がその所有する土地建物を売却し、その売得金を右費用に充当したことにより被つた損害をも賠償すべしと主張するが、しかし、一般に子に対し違法な公訴の提起、追行がなされた場合、通常親に右のような損害が生ずるとはいえないから、本件の違法な公訴の提起、追行と亡資豊の財産的損害との間には相当因果関係がないというべきである。よつて、原告らの右主張は理由がない。

(二)  慰謝料

原告隆を除くその余の原告ら及び亡資豊は、原告隆の親、妹、弟であり、原告隆が長期の勾留、有罪判決の宣告及びその刑の執行を受けたことにともない、社会生活において、あるいは嫁ぎ先や勤務先において数々の不利益を受け、そのため多大の精神的苦痛を被つたとしても、これらの精神的苦痛は、通常公訴の提起、追行、有罪判決の宣告等に必然的にともなうものであるから、原告隆の無罪が確定し、同人の精神的苦痛が慰謝されることにより当然慰謝される範囲内にあるものと解すべきである。よつて、その余の原告らの慰謝料請求は、亡資豊の慰謝料請求権の相続分をも含めて理由がない。

九結論

よつて、原告らの本訴請求は、原告隆につき金九六〇万二四〇一円及びこれに対する本件不法行為の日より後である昭和五二年一〇月二八日から支払いずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、同原告のその余の請求ならびに同原告を除くその余の原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条、九三条、八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(新田誠志 渡邊雅文 矢崎博一)

別紙(一)

請求金額明細表

原告名

拘禁中の

逸失利益

慰謝料

刑事

裁判

費用

亡資豊の

損害賠償

請求権の

相続分

刑事補償法

により補償を

受けた金員

弁護士

費用

請求金

合計額

三四二四万

二七〇〇円

二〇〇〇

万円

六〇〇

万円

一〇〇

万円

一三九九万

六八〇〇円

四七〇

万円

五一九四万

五九〇〇円

とみ

五〇〇

万円

四五〇

万円

九五

万円

一〇四五

万円

光子

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

芳子

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

節子

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

綾子

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

文子

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

静子

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

三〇〇

万円

一〇〇

万円

四〇

万円

四四〇

万円

総合計九七五九万五九〇〇円

別紙(二)

公訴事実

被告人は変態性欲者であるが国立弘前大学医学部教授医学博士松永藤雄妻すず子当三十年の美貌に執心し昭和二十四年八月六日午後十一時頃から同十一時三十分頃迄の間に弘前市大字在府町七十九番地高杉隆治方離座敷の階下十畳間に実母等と枕を並べて就寝熟睡中の松永すず子を殺害して変態性欲の満足を得る目的でその寝室に忍び込み枕許に座し所携の鋭利なる刃物(大型ナイフ)を以て同人の頸頭を一突きに突き刺し左側頸動脈同頸静脈同迷走神経等を切断し間も無く死亡させて所期の目的を遂げたものである。

別紙(三)

弘前市大字在府町付近略図

距離は間山重雄作成の「血痕滴跡状况図面作成について」と題する書面添付の図面による。

・印は警察官によつて発見された血痕様斑痕を示す。

別紙(四)

別紙(四)

昭和

月額(円)

年額(円)

拘禁日数

計算方法

逸失利益(円)

(円未満切捨て)

24

8,019

96,228

69日

96,228×69/365

18,191

25

9,687

116,244

1年間

116,244

26

12,200

146,400

12日

146,400×12/365

4,813

27

14,434

173,208

210日

173,208×210/365

99,653

28

16,741

200,892

1年間

200,892

29

17,898

214,776

214,776

30

18,624

223,488

223,488

31

20,201

242,412

242,412

32

20,201

242,412

242,412

33

19,649

235,788

235,788

34

20,522

246,264

246,264

35

22,003

264,036

264,036

36

23,861

286,332

286,332

37

27,174

326,088

326,088

38

29,703

356,436

8日

356,436×8/365

7,812

(注) 1年を365日として計算した。   (合計) 2,729,201円

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